スマートフォン版を表示

K-ボイス

歴史への招待 86) うつろ屋軍師

2018/02/11 6:45:

丹羽長秀が家臣、江口三郎右衛門正吉(まさよし)。人は彼のことを「空論屋三右(うつろやさんえ)」と言う。

信長の紀伊雑賀攻めでは、十万もの大軍でも攻めあぐねていた中野城で、一番槍の功名をあげるほどの武士でありながら、空論癖とも言える想像力と空想力が有り過ぎて、人からは妄想家と見られてしまう欠点がある。
しかし、主君長秀は正吉に期待するところが大きく、二十歳そこそこの正吉を若狭国吉城代に据えた。大抜擢である。

天正十年(1582)本能寺の変の後、清須会議を前にした秀吉が、佐和山城に長秀を訪ねてきた。
織田家の後継者、ひいては天下人を決める会議を有利に運ぶため、秀吉は事前の打ち合わせに訪れたのだった。
このとき同席を許されたことにより、秀吉を身近に知る身となる。
その後、秀吉と勝家の対決前には、密かに秀吉と二人だけの軍議に参加し、我知らず秀吉に賤ヶ岳勝利の構想を示唆していた。

勝家を倒した秀吉は、自身を一貫して支持し続けた長秀に報いるため越前、若狭一国、加賀半国、近江の二郡あわせて百二十三万石を与えた。
しかし長秀は、大封を得ても喜びより憂いが深く、後の災いを予見しながら世を去る。

長秀が亡くなると、嫡男の長重(ながしげ)が後を継いだが、長秀の予見通り京師近隣に大封を持つ丹羽家の存続を秀吉は許さなかった。
謀反の言いがかりをつけ改易にされるところ、正吉らの果断な処置により改易は免れたが若狭一国十五万石に落とされ、さらに九州征伐では活躍の場を与えられない中、先代に比べ働きが悪いと、加賀松任四万石に再度減封される。

度重なる大減封で、多くの家臣が丹羽家を去ったが、残った正吉ら家臣と長重との距離は縮まり、正吉は筆頭家老として空論(うつろ)を藩の政に生かせる立場に立った。
まず藩を挙げて取り組んだのは、先代が遺してくれた職人集団による手取川支流の治水工事。
技術力の高さを秀吉に認めさせ、売り込むためだった。

秀吉の北条征伐に従軍した丹羽軍には、多数の木工、石工を帯同していた。
箱根山中城攻めで、抜け駆けの功名を挙げた正吉は、褒美のかわりに付城の石垣工事を引き受けた。手取川の治水にはじまる遠大な空論(うつろ)は、正吉ら丹羽家家臣団の活躍で、加賀小松十二万五千石への加増となって結実した。

その後も、紆余曲折する丹羽家。そこに後悔はない。損得ではなく、先代長秀の志を継いで、真の武士として生きると決めたのだから・・・。

「うつろ屋軍師」箕輪 諒著 祥伝社文庫 978439634387

橋本

つぶやきをもっと見る