スマートフォン版を表示

K-ボイス

歴史への招待 84) 志士の峠

2018/01/21 8:16:

その日、文久3年(1863)8月14日の八つ時(午前3時)。
京都東山の方広寺境内に、公家中山忠光をはじめ三十九人の若者が集まった。
ほぼ半数の19人が土佐出身の浪士、他は久留米藩、鳥取藩、島原藩などの様々な藩からの出身者で圧倒的に二十代が多い。最年長でも三十五歳、最年少は忠光ともう一人十九歳だった。

前日の13日に、孝明天皇が攘夷訴願のため神武天皇陵や春日大社を参拝する大和行幸が告知された。
帝に攘夷を約束しながら何度も反故にしてきた幕府を追い詰め、帝の大和行幸を契機として諸藩を束ね、皇軍として江戸に攻め入り幕府を倒し、新しい政府を樹立する。
大和行幸の隠された目的である。

忠光らは、帝の先触れとして大和に向けて意気揚々と出発した。
忠光の父は、権大納言であり急進的尊王攘夷派でもある中山忠能(ただやす)。姉の慶子(よしこ)は祐宮(さちのみや:後の明治天皇)の生母である。
忠光は公家でありながら、父の影響から尊王攘夷の志士の仲間入りをし、今回の義挙の総大将に祭り上げられた。

忠光ら皇軍先鋒隊の最初の標的は、河内から大和に入った国境に近い幕府の五条代官所。
不意を突いた一行は、代官らを討ち代官所の占拠に成功する。
さらに、十津川郷士千二百の参加を得て、大和国の制覇は順調に進むかに見えたが、京都では18日に政変が起こり、大和行幸は無期延期、尊王攘夷派公卿や長州藩は京都から追放されてしまった。

急遽、割拠先として近隣の高取藩を目指した先鋒隊(この後天誅組と称する)は、小藩と見くびったため手痛い反撃を受け、さらに幕府より諸藩の追討軍を差し向けられると、応援の十津川郷士にも見限られ、孤立無援となってしまう。
義挙の立ち上げから、わずか数日で暴徒に落ちた中山ら天誅組。

諸藩の追討を受けながら、満身創痍で南大和の山々を駆け廻る志士達は、ともすれば自暴自棄になり、死に急ごうとする。
そんな中、忠光は天誅組として死んでいった者たちのためにも、逃げ切って後再挙を計り、天誅組の正義を世に知らしめようと決意する。
討幕の先駆けとなるべく挙兵した忠光ら若き志士達は、運命に翻弄されてしまうのか・・・。


「志士の峠」植松三十里著 中公文庫 978412206497

橋本

つぶやきをもっと見る