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K-ボイス

歴史への招待 82) 天翔ける

2018/01/01 9:02:

「なき数によしやいるとも天翔(あまかけ)り御世を守らむ皇国(すめぐに)のため」
春嶽、享年六十三。辞世の歌である。

春嶽は徳川一門、御三卿田安家に生まれた。
本名は慶永、幼名は錦之丞である。十一代将軍家斉は伯父にあたり、十二代将軍家慶は従兄である。
御三卿の家に生まれた者の務めは、将軍となるかもしれない日に備え、日々勉学に勤しみ、己を鍛えることだった。
毎日、早朝に起きると自分で髪を整え、身支度をし、「大学」「論語」の素読をする。午後からは「手習稽古」などに励む、読書好きな子供だった。

天保九年(1838)春、慶永は将軍家慶の命により、十六代越前福井藩主となった。
十一歳の少年藩主である。
藩主慶永の側近、御用掛となったのは国学者である中根靫負(雪江)だった。
教育係りとして藩主としての責務を厳しく説く靫負の言を入れ、慶永は藩政改革に乗り出していく。
旧守派の家老らを退け、人事の刷新を図り、橋本左内ら人材登用で、改革に成果を上げた慶永は、積極的開国論に藩論を転じ、将軍継嗣問題にも深く係わるようになる。
左内らの尽力にもかかわらず、井伊直弼ら南紀派との政争に敗れた春嶽は、隠居を命じられ、逼塞を余儀なくされるかに思われた。が、
「百折不撓(ふとう)」(何度挫折してもくじけない)

思い直した春嶽は、熊本より横井小楠を招き、更なる改革に邁進する。小楠の指導により藩財政を立て直した春嶽は、政治総裁職として、将軍後見職の一橋慶喜や春嶽とともに四賢侯と言われた土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城らとともに、難しい国政の舵取りに向うことになる。

ペリー来航以来の未曽有の国難に際しても、「私」私利私欲、から逃れられない幕府、諸藩、公家らをしり目に、一人「公」国と民、のための政を貫こうと孤軍奮闘した春嶽。
政治を行うには清廉過ぎた春嶽。春嶽の目指す挙国一致は結局実現せず、薩長中心の討幕勢力により維新が実現する。しかし政界を退いた後も春嶽は国の行く末を案じ続けたようです。
辞世に国を思う気持ちが込められています。


「天翔ける」葉室麟著
KADOKAWA 978404105720

橋本

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