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K-ボイス

歴史への招待 78) 冬を待つ城

2017/11/21 5:23:

久慈四郎正則は、長兄九戸政実(まさざね)の居城のある二戸へ向けて、雪の山道を急いでいた。
政実が、三戸城を居城とする南部信直への新年参賀を欠席すると聞いたから、直接兄の真意を問うためだった。

元々、九戸家は南部家の支流で、南部家を名目上の主家と仰ぎながらも、対等に近い間柄だった。
しかし、秀吉の奥州仕置により、中央集権化を計る豊臣政権は、南部家を主家と認め、九戸ほかの諸家に南部への臣従をもとめた。
今、新年参賀を拒むことは、豊臣政権への反逆とみなされ、南部もろとも滅ぼされてしまうに違いない。

しかも、南部信直と政実の関係は険悪と言ってよい。
それは南部家先代晴政没後、嫡子晴継の不慮の死への疑惑と、その後の家督争いに於いて、信直一派の力による相続に、政実が異議を唱えていたからである。

とは言え、ことここに至っては、我を折って参賀に赴かねば戦になる。
中の兄、実親と相談の結果、三男康実と叔父で長興寺の薩天和尚にも入ってもらい、家族会議を開き、政実を説得し、ようやく正月参賀に行くことを約束させることが出来た。

しかし、正月参賀の日、政実は参賀に訪れなかった。
正則はじめ三兄弟は窮地に立たされ、政実の嫡男亀千代を証人に出し、政実が信直に対面しわびを入れることを約して、かろうじてその場を繕った。

やっと和解の対面を迎えた日。政実が明らかにしたのは、恐るべき豊臣政権の人狩りの話だった。極寒の地、朝鮮への出兵に備え、奥羽の人々を人足として徴発すると言う。
信直にこの件への対応を迫るも、政実の話を信用せず、和解は物別れとなった。
しかも、その場で政実が刺客に襲われるに及び、両家の間は修復不能となり、ついに開戦に至ってしまう。

政実が刺客に襲われたことも、南部と九戸の対立を煽っているのも、豊臣政権のある人物の思惑があった。朝鮮で使役する人狩りだけでなく、九戸の領内で産出する良質の硫黄も目当てだったのだ。

南部、九戸両家は与党を募り、攻防は一進一退、決着が付かず、信直救援の名目で、豊臣の第二次奥州征伐がはじまった。
秀吉は、六月に軍令を発し、伊達や蒲生、奥州の諸将だけでなく、上杉景勝、徳川家康を参軍させ、甥の秀次を総大将に据え、十五万の大軍で攻め寄せてくる。

誰れが見ても政実らに勝ち目はない。
しかし、政実には負けない目論見が出来ていた。
元々要害の地にある九戸城を改修し、より攻めにくくし、鉄砲をはじめ武器、弾薬、兵糧を十分に蓄えた。
そして、伊達正宗に和議の斡旋を依頼し時を稼ぐ。今は八月、旧暦の八月は奥州では秋。十月には奥州の早い冬が訪れ、一面の野山を雪に埋もれさせる。

和議は成らず、征伐軍が動き出すと、山間の地形を利用し、遊撃軍や一揆勢を要路に配置し、輜重部隊や行軍の伸びきった諸将の部隊を襲い、進撃を阻んだ。
さらに、九戸城下の住民を避難させ、一帯を焼け野原とし井戸も潰した。
大軍が、九戸城を囲んでも、陣屋を造る材木すらない。

冬が来れば、大軍であることがかえって苦になる。陣小屋もなく、暖を取る薪もなく、兵糧も届かなければ全滅しかない。
政実ら九戸勢の待ち焦がれる冬は、もうそこまで来ていた。


「冬を待つ城」安倍龍太郎著 新潮社文庫 978410130527


橋本

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