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K-ボイス

歴史への招待 72) 黄砂の籠城

2017/09/21 5:01:

1900年当時、北京には租界はなかった。
日本を含め欧米列強の公使館は、北京内城に隣接した東交民巷と呼ばれる約一キロ四方の地区に、中国側公館、民間施設・住居と雑居してあった。

アヘン戦争(1840)以降、宣教師や欧米民間人が中国民衆と広範に接触するようになると、戦勝国意識で傲岸な欧米人とその特権に守られた中国人信者たちは、一般民衆との対立を深めていく。
各地で仇教事件(教案)とよばれる欧米人を含むキリスト教信者と民衆の衝突事件は、わずか60年の間に400件を数えるまでになった。

義和団は、当初山東省を中心とした梅花拳(後の義和拳)とよばれる武闘集団がその起こりだったが、「扶清滅洋」をスローガンに掲げるに及び、一般民衆を巻き込み燎原之火のごとくたちまち全国に波及した。
中国官憲は、欧米からの圧力にも係わらず摘発には熱心でなく、密かに支持援助する高官も現れ、後には時の最高権力者西太后が支持を表明するに及び、中国は日本を含む欧米列強に宣戦することになる。これが義和団事変(北清事変)である。

話は少しさかのぼって3月。一人の公使館付陸軍武官が赴任してきた。柴五郎砲兵中佐である。
語学に堪能な彼は、物静かで礼儀正しく、決して高圧的な態度をとる人ではない。
日本人を含む居留民虐殺事件を引き起こした義和団への対策を協議するために開かれた各国公使と駐在武官を交えた会議でも、西公使とともに積極的な発言はしなかった。
発言しなかったと言うより、欧米列強からは日本は軽く見られていて、義和団について発言を求められることもなかったというのが事実である。
会議は、楽観が支配し、義和団は革命組織にはなりえない。よって性急に各国軍隊を呼び寄せることは出来ないとの結論に達した。

しかし、5月末。義和団は、集団で北京・天津間の鉄道を襲った。
あわてた各国は、天津に駐留する自国軍を北京に呼び寄せた。英・仏・米・露・伊・独・墺・日の合計405名。
援軍を迎えて、各国駐在武官と援軍の代表を交えた対策会議が開かれた。
当初、各国代表はそれぞれ勝手な意見を言い合い対立していたが、柴中佐が精密な地図を提示し各国の防御能力を分析するに及び、語学堪能でもある柴中佐が会議を主導し、各国は一致団結することが出来た。

柴中佐の防衛計画は綿密を極め、兵の配備、簡易的な防壁の設置、機関砲の配置から防御区域の分担、兵站の管理まで及んだ完璧なものだった。
さらに、追加の援軍2300名の第一陣800名が、天津を出発したとの情報を得て安堵したのも束の間、援軍は義和団の大集団と交戦状態となり、撃退されてしまった。

北京には次々と義和団が集結し、東交民巷を包囲する集団は数万にも達した。
そして、遂に義和団は、牙を剥き襲いかかって来た。津波のごとく襲いかかる人の波。撃たれても撃たれても怯むことなく襲いかかる義和団に、防衛網はしだいに狭められ風前の灯となる。

誰もが悲観に支配される中、決して諦めず、規則正しく、、献身的に働いたのは、日本人たちだった。31名の義勇兵を含む日本軍と民間人は、自己の危険を顧みず、自国と他国を問わず中国人をも含めて東交民巷にいるすべての人の為に戦った。
この悲惨で、苦しい籠城は、実に2ヶ月弱も続き、人々は共に助け合い苦難を乗り切った。

英国公使マクドナルドが「君たち日本人が示した勇気を心から称えたい」と言ったことは、その場にいて共に苦闘した欧米人すべての声だった。


「黄砂の籠城」松岡圭祐著 講談社文庫 上巻 978406293634
下巻 978406293677


橋本

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