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K-ボイス

歴史への招待 67) 徳川宗春 尾張葵風姿伝

2017/08/01 5:57:

通春(みちはる:後の宗春)が初めて江戸の地を踏んだのは、16歳の春だった。
御三家筆頭尾張藩、第三代藩主綱誠(つななり)の御曹司とは言え、二十番目の男子「御あてがい様」では共の者五人という少なさだった。

「御あてがい様」とは、跡継ぎになれなかった大名の二男以下の公子で、分家もされず養子口もなく、一生部屋住みで暮らさざるおえない身である。

通春が出府してしばらくすると尾張藩に凶事が続く。藩主吉通(よしみち)が七月に病没し、嫡子五郎太が三歳で襲封したが、十月に高熱を発しあっけなく逝ってしまった。

吉通の子は他にいない。綱誠の男子は全部で22人生まれているものの、大部分が早世しており、この時まで残っていたのは継友、義孝、通温(みちまさ)、通春の四人のみ。
このうち、義孝は尾張藩分家四谷家へ養子に出ており、最年長の継友が藩主の座に就いたのだが、後に通温が不行跡により蟄居の身となり、通春は「御控え様」に。

「御控え様」。藩主に世継がいない場合、藩主にもしもの時跡目を継ぐ立場になったのだが、藩主継友はまだ若く、今後世継が出来る可能性は高く、通春の気ままな生活が変わったわけではない。

ひょんな事から知り合いとなった浄瑠璃作者、近松門左衛門。門左衛門を通じて知り合った黒表紙屋(黒表紙=戯作評判記)の六郎次。
彼と連れ立って出かけるのは、芝居小屋や矢場、湯屋であったり、うなぎ屋やももんじ屋(獣肉屋)、水茶屋にもしょっちゅう立ち寄る。時には岡場所や吉原までも。
とても、尾張の御曹司の出入りするような場所柄ではなかったが、おかげで庶民の暮らしぶりをつぶさに見ることが出来た。

世は、八代将軍吉宗の時代。享保の改革で質素倹約が喧しい時代となっていた。
「江戸の町から色が消えた」。奢侈追放で、身にまとうものが対象となり、若い娘までもが粗末な木綿を着、髪飾りも遠慮しろと。衣服だけでなく、美食や、酒・たばこなどの嗜好品も控えろ。芝居や色里も禁止では、町は灯が消えたようで、庶民から笑顔も消えた。

享保14年、通春に転機が訪れる。陸奥梁川三万石の四代目藩主への襲封が決まる。
お祝いに駆け付けた六郎次に「どんな大名になってほしい」と問うと。
「自分の好き嫌いを民百姓に押し付ける大名になって欲しくない」
「人が何を楽しみに生きているかわからない」「やたらと何でも禁止する大名にはなってほしくない」
いずれもご政道に対する批判であった。

しかし、領国梁川へ入府もしない間に、翌年兄継友が病没し、思いがけず尾張藩六十二万石を襲封することになった。
宗春は、初の国入に際し無難とは程遠い「かぶいた姿」で、お国入を果たす。
新しい藩主がどんな男か知りたがっている領民に、自分の姿を見せてやらねばならぬ。尾張を江戸に劣らぬ活気あふれる豊かな土地にしたい。新藩主の意気込みの表れであった。

宗春は、まずは祭礼、それも派手で元気な往事の祭礼の復活を考えた。藩主自ら祭りを主催したり、地元の祭りに参加し大いに祭りを盛り上げた。
秋には、茸狩りや歌舞伎座興行、申楽など、藩主が先頭を切って参加し、翌年には遊郭の開設も認めて、名古屋はにわかに活気づくことになる。

しかし、宗春人気が名古屋で、江戸で、高まれば高まるほど、苦々しく思うのは将軍吉宗だった。
兄継友が臨終の間際に掛けたことば「むちゃをして怪我をするな」が現実になろうとしていた。


「徳川宗春」高橋和島著 光文社文庫 978433477504


橋本

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