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K-ボイス

歴史への招待 59) その後の慶喜

2017/05/11 6:56:

最後の将軍、徳川慶喜。
大政奉還をなして、徳川幕府に終焉をもたらした。鳥羽・伏見以降は朝敵となることを嫌い、ひたすら恭順を貫き、脆弱な新政府軍と旧幕府軍との本格的な内乱を防いだとも言える。

上野寛永寺から水戸へ向かう慶喜。歴史上の慶喜はそこで終わりです。
しかし大政奉還時32歳。慶喜はその後大正時代76歳までひっそりと生きたのです。
徳川慶喜について書かれた本は、将軍就任前から、大政奉還までを取り上げたものがほとんどで、その後半生はほとんど知られていません。

わずかに1982年発行の「聞き書き 徳川慶喜残照」に慶喜身の回りの人々からの聞き書きとして後半生を紹介しているくらいのものでした。

たしかに慶喜は大政奉還後、その歴史的意義を失ったのかもしれません。それに権力者が没落する例は、洋の東西を問わず枚挙がなく珍しくもなんともないでしょう。
しかし、多くの事例では旧権力者は、死亡したり行方不明だったり、幽閉され悲惨な末路をたどることが通常なのに比して、慶喜は平凡な後半生を送り、畳の上で亡くなっていることが非凡と言えるのです。

本書では、慶喜が長い静岡時代にどのような生活をを送っていたのか。
慶喜が旧幕臣にどのような対応をとったのか。
徳川宗家と慶喜家の関係、朝廷・皇室への慶喜の対応とその変遷などを、慶喜家の「家扶日記」(家宰が記した慶喜家の記録)から紹介しています。

慶応四年七月に水戸から静岡へ転居した慶喜は、ここでも徳川家の菩提寺宝台院での謹慎生活を続ける。
謹慎・恭順の姿勢は、先に挙げた通り、鳥羽・伏見以降一貫して貫かれているのですが、幕臣の中では少数派だった勝海舟、大久保一翁、山岡鉄太郎らの恭順派とも言える人々の意志が強く働いていて、静岡での隠居生活にも大きな影響を与えていました。

勝海舟らは、慶喜の助命、徳川家の存続に奮闘し、慶喜と徳川宗家を救ったとも言えますが、多くの幕臣から見れば、慶喜を含め裏切り者であり、許せない存在だったのでしょう。
それが、慶喜が旧幕臣に頑なに会おうとしなかった理由でもあるのです。

慶喜の謹慎が解けた後の私生活は、ごく親しい人々と趣味に没頭し、子宝にも恵まれ平穏な日々を過ごすことになりますが、公の場に出ることは徳川宗家を隠れ蓑に拒み、政治的な発言は慎重に避け続けています。

そんな慶喜に転機が訪れるのは、東京巣鴨に転居し、新たな交流関係が生まれた明治三十年以降です。
明治三十一年には、初の参内を果たし明治天皇・皇后との拝謁が実現する。
この日、慶喜と明治天皇は会見するだけでなく、親しく酒肴を共にし、お互いのわだかまりを氷解させたようです。
この後は、宮中行事には欠かすことなく招待され、皇室との関係は円満に推移し、明治三十五年には人臣最高の公爵にも列せられ、貴族院議員にも名を連ね名実ともに名誉を回復する。

征夷大将軍から一転して朝敵となり、逼塞の日々を強いられた慶喜は、明治の元勲と言われる人々、木戸、西郷、大久保や伊藤、明治天皇よりも長生きし明治と言う時代の誕生から終焉までを見届け、何も語らず大往生と言える生涯を終えるのです。


「その後の慶喜」家近良樹著 ちくま文庫 978448043422


橋本

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