スマートフォン版を表示

K-ボイス

歴史への招待 58) なぜ会津は希代の雄藩になったか

2017/05/01 6:01:

日本史の教科書で習った江戸時代の三大改革の一つ老中松平定信の寛政の改革。
陸奥白河藩の藩主であった定信が、寛政の改革の最中、国家老たちに「会津の田中三郎兵衛に笑われぬようにせよ」と言わしめたのは、会津藩家老、田中玄幸(はるなか)。

そもそも会津藩は、藩祖保科正之が会津23万石に移封された寛永二十年(1643)に始まり、正之は入部当初から年貢率を引き下げるなど民に優しい政を心掛けた数少ない藩でした。
その甲斐あり、当初11万だった人口は着実に増え続け二代正経(まさつね)の時代には16万に届こうかと言うまでになる。
しかし、在職50年に及んだ三代正容(まさかた)の時代には、微増しかせず享保三年(1718)をピークに減少に転じてしまう。

減少傾向はその後も続き、五代容頌(かたのぶ)の頃には13万人台にまで落ち込む。
これは例年のように凶作が続き、農村が疲弊し産子殺しが増加したためで、藩としても年貢率の減免や飢餓防止策など数々の救済策を施すが、人口減には歯止めはかからなかった。

人口減少と反比例して増え続けたのが藩の借入金。
凶作や飢饉が続き、藩の収入は減っても救済策などで支出は増え続け、さらに人口減が年貢収入の減少へと悪循環が重なり、容頌の治世安永元年(1750)には借入金は57万両にもなってしまった。

藩も無策だった訳ではない。度々150石以上で3割、それ以下の者へは2割の借知(知行借り上げ)を命じたが、焼け石に水。貸主からは新たな借り入れを断られたり、評定所に訴え出られるまでになってしまう。

玄幸の改革は、天明七年(1787)から始まるのですが、彼の改革で注目すべきは、まず社倉米(飢饉時貸出のための備蓄)の総高を引き上げたり、社倉米の返済が滞ったもの、年貢未納の古いものについては免除したことで、藩の借金返済よりも、民の救済を先とする驚きの改革なのです。

次には、よくあることとも言える地場産業育成策ですが、玄幸のものは他藩とは趣が違います。
たとえば、実から蝋がとれ、ロウソクの原料となり、幹に傷をつけると漆液のとれる漆の木は、無理に傷を付けるとすぐ枯れてしまう。そこで一本づつ戸籍を作り保護育成に努めるのですが、その数なんと180万本。
また、酒造業は正之の頃から奨励されていたが、上酒とは言えず藩外には出せないものだったが、摂津の灘から杜氏を招き評判の良い清酒を造れるようになった。
さらに養蚕業では隣の福島藩より苗を買い入れ普及に努め、藩主導で桑の葉の買い取りまで行った。蚕から取れる絹糸を絹織物業として育成するために、これも達人を京都西陣から招いき家中に指導をいきわたらせた。
質素な藩風の会津藩では、絹織物は普及していなかったが、自分や家族が織ったものは着用できるとしたところ、会津家中の婦女で機織り機を持たないものがいないくらいの普及を見せた。

その他にも、松茸の栽培や鯉の養殖、漆器の製造など数々の地場産業を育成し、会津の名産に育て上げた。

玄幸の改革は、それだけではない。
最も重点の置かれたのは、教育改革と軍制改革だった。時代に即した教育の充実と、実践的かつ近代的な軍制改革により、会津は注目される雄藩となった。

その後、幕末に薩摩・長州と対峙し、佐幕派の領袖となったのは、改革の成功が招いた皮肉な結果でした。


「なぜ会津は希代の雄藩になったか」中村彰彦著 PHP新書 978456982679


橋本

つぶやきをもっと見る