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歴史への招待 57) 上杉謙信の夢と野望

2017/04/21 6:59:

謙信の父、長尾為景は越後の守護代で実質的な越後の支配者でした。
上杉謙信と言えば、筋目を守り、助けを求められれば損得を顧みず助太刀する「義将」のイメージがありますが、彼の行動は彼の個人的な主義からではなく、幕府の権威回復を目指した政治的なものでした。

彼の公儀を重んずる考えの元となるものは、一つには父の影響があります。
父為景は、越後守護代として権勢をふるう訳ですが、守護や幕府の権威を利用こそすれ、尊崇する気持ちはかけらもない梟雄と言ってもよい存在でした。しかし権威の使い道はしっかり心得、反為景派の上条定兼等の挙兵の危機に際しては、朝廷に働きかけて越後国内平定の治罰の綸旨を拝命していたのでした。

当時の朝命と「錦の御旗」は、反為景派を分裂させ、裏切りをも正当化するほど効力のあるもので、幼い虎千代(謙信)には強烈な印象として残ります。

もう一つには、兄晴景の存在があります。
虎千代は、兄を支える存在として徹底して儒教を教え込まれました。しかし、晴景は病弱で守護代の重任を果たすことが出来ず、家臣の推挙もあり止む無く虎千代が守護代に就くのですが、兄の存在に変わるものとして公儀、幕府があったようです。

また、謙信の不犯の誓いは有名で、軍神毘沙門天に功徳を求めて「不邪淫」の戒律を守ったなどと言われていますが、これも真実は、家督を譲られた時、晴景の嫡男が成長した時に家督を還すと約束したからというのが、どうも真相のようです。
しかし、この誓いも兄の子が早世してしまったことで無に帰してしまい、謙信亡き後、相続をめぐる争い「御館の乱:おたてのらん」を引き起こすことになってしまいます。

謙信の度重なる関東、信濃への出兵は、救いを求められたからと言うのは無論ですが、大局的には公儀の威信・威令の回復の為、まず関東を従え西上し、戦国の世を終わらせるという大義があったのです。

永禄三年から四年(1560〜61年)にかけた関東出兵では、瞬く間に北条方の関東諸城を落とし、関東勢を傘下に収めて小田原城を包囲するまでの勢いを見せる。
鎌倉に関東諸将を集め推戴される形で関東管領職に就きます。ここで北条氏を滅ぼすか従えていれば、天下静謐を目指した上洛戦が始まったのでしょう。

また、信玄との数時に亘る川中島の戦いは、信濃をどちらが勢力下に置くかという観点からではなく、公儀のため関東経略、上洛を目指す謙信と標的とされた武田家信玄の、存続を賭けた決戦のための決戦だったのです。

しかし、関東では諸将との不和や北条氏の巻き返しに合い、信濃では信玄との戦いはこう着状態となってしまい、謙信の壮大な夢は幻となってしまいます。

その後は、将軍義昭の要請から北陸道からの上洛を目指し、信長と激しく対峙します。
一時、越中から能登、加賀をも席巻し、織田軍団に圧勝する場面もあり、信長を苦境に追い込みますが、一時帰郷した春日山城で亡くなってしまいます。

室町幕府の権威を回復する夢は潰えましたが、謙信の生き方は、自領の維持・拡大を目指した戦国大名の中で出色であり、後世の私たちにも感銘を与え続けるのではないでしょうか。


「上杉謙信の夢と野望」乃至政彦著 KKベストセラーズ(ワニ文庫) 978458439394


橋本

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