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歴史への招待 63) 将門(まさかど)

2017/06/21 6:03:

桓武平氏の祖、高望王は将門の祖父にあたる。
臣に下ったとはいえ皇族に連なる高望一族は、坂東に根を張り、広大な地域を支配する貴族だった。
一族の集まりで、鎮守府将軍として陸奥に赴き、蝦夷と対峙する父、良持(よしもち)を見下し揶揄する伯父たちに怨嗟のまなざしを向ける少年が将門だった。

伯父たちに怒りの言葉をぶつける将門、息子を制止し叩きのめす良持。場が騒然とする中、高望は少年二人を前にして
長男国香の嫡子良盛には「我が一族の繁栄の礎となる」と予言めいた言葉を発する。
一方将門には、逡巡の後、
「やがて帝をも超える、真の王になる」。 言った途端、高望は崩れ落ちるように倒れた。

父良持が陸奥の任地で、病に倒れ亡くなると、伯父達は将門が幼いゆえ管理・監督のためとの名目で父の所領を簒奪した。
不満ながらも、どうすることも出来ない将門は、良盛の後を追い都へ。
祖父の予言に縛られる良盛は、貴族として出世を目指し、将門にも平氏の隆盛のため共に歩もうと熱く語る。

それから十年以上の歳月が流れると二人の境遇には大きな差が出来てしまった。
漢籍や和歌に明るく公家受けのよい良盛は、左馬介となり屋敷を構えるまでになるが、処世術も知らず、坂東の気風の抜けない将門は、何の官職にもつけないまま藤原忠平の家人止まり。

止める良盛を振り切り、坂東に戻った将門。
家族や以前の家臣達が暖かく迎えてくれる。都とは違い人も自然も故郷の温もりが懐かしい。

ある日、遠駆に出かけて見初めた少女を、本能の赴くまま連れ帰って妻とした。
本人も望んだ事とはいえ、娘奈美には親の決めた相手がいた。
前常陸大掾(ひたちのだいじょう)源護の長子扶(たすく)の許嫁を奪った将門。しかも奈美は伯父良兼の娘だった。
伯父達の奪った土地を無理やり取り戻したことと相まって、将門は坂東の有力者をすべて敵に回すことに。

一門の平真樹と源護との土地争いの調停に乗り出した将門を迎えたのは、将門を憎む扶ら源護の息子達。話し合いを求めてきたはずが、弓矢の応酬となり、息子達を討ち果たしてしまう。
平家の棟梁でもある良盛の父国香に事の是非を問うつもりで国香の屋敷に向かうと、国香は甥の将門に討たれることを恐れ自害してしまう。

将門から戦を望んだ訳ではないが、一門の争いは、取り返しがつかないところまで行ってしまい、良盛や伯父良兼との争いは、坂東の国人を巻き込んだ争いに発展していく。
良兼ら既存の冠位官職に胡坐をかく有力国人と圧政と搾取に苦しむ下級武士との対立は、将門を中心に渦をなし、坂東一円に広まっていく。

将門は、三十年前の祖父高望の言葉を思い出していた。
「真の王」。意味が解らず、気に留めていたわけでもないあの言葉の意味が、今なら解る。
「民から多くのものを奪い、都でわが世の春を謳歌する公家などいらない」
坂東を制し、京へ。新皇となって民のための国を築くのだ。



「将門」矢野隆著 PHP文芸文庫 978456976578


橋本

歴史への招待 62) さむらい道

2017/06/11 8:15:

最上義光(もがみ よしあき)。
出羽国(山形)の戦国大名で、山形藩の初代藩主です。

隣国の伊達正宗や越後から会津に入封した上杉景勝と比べると認知度は低く、義光を題材とした作品はほとんどなく、その生涯はあまり知られていません。

「さむらい道」を信条とし、出羽探題としての節義を守り決して他領を自ら冒すことなく、戦いも我を守る為の戦いに終始した義光の生き方は、戦国の世において光彩を放っています。
結果的に山形の地方城主から出羽一国57万石の太守に成り上がるのですが、卑怯な振る舞いや裏切りなどとは無縁で、四面楚歌に苦しみながらも武士としての矜持を守り通し、大大名になった人物です。

義光は数奇な運命に翻弄された生涯を送ることになります。
幼くして母は、父義守から暇を出され出家してしまい、側室の子義時を可愛がり弟に家督を継がせたい父に疎まれ、一時他家へ幽閉される。
しかし、祖父の代からの旧臣達に支持され、山形復帰を果たし、一種のクーデターにより父義守を隠居させ家督相続を果たす。

家督相続はしたが、父の画策により、米沢の伊達輝宗を中心に山形包囲網が出来上がってしまう。
伊達の大軍を迎えた戦いは、地の利とゲリラ戦法で撃退に成功するが、その後も山形膝元の中野、最上川西岸の白岩、谷地、東岸の天童との争いに苦慮します。

秀吉の世になると「惣無事令」とは名ばかりで越後からの進攻を受け、止む無く上杉との争いに巻き込まれるが、上杉びいきの裁定の末、出羽庄内地方を上杉に浸食されてしまう。

秀吉の北条征伐では、父の葬儀により伊達正宗より遅参するが、家康の口添えにより咎めはなく所領は安堵された。
しかし、秀次に末娘駒姫を気に入られ側室に出さざる負えなくなる。
しかもあろうことか秀次謀叛の嫌疑に連座して、駒姫は斬首。義光も謀叛の疑いで幽閉される。
度重なる窮地を救ったのは、またも家康の助けだった。

家康の上杉征伐では、義光は無論「さむらい道」として、家康の恩義にむいる側で参戦を決意するが、家中では、他領を自ら冒さないと言う「さむらい道」に反するのではとの異論もあった。結局、戦いを仕掛けて来たのは上杉側の直江兼続で、ここでは家中はまとまり一丸となって直江軍と対峙し奮戦します。
最後は、東軍大勝の報とともに、直江兼続は軍を返し、義光は「負けまい、勝つまいの戦」を制し、出羽を守り通します。

関ケ原で家康が大勝し、後の徳川幕府開幕の基礎を築いたことは周知の事実ですが、家康が安心して軍を返すことが出来たのは、懸念の種上杉を牽制し引き留めた、義光への信頼も大きな要素だったのです。


「さむらい道」上巻 高橋義夫著 中央公論新社 978412004963
「さむらい道」下巻  978412004964


橋本

歴史への招待 61) 黎明に起つ

2017/06/01 6:01:

物語の主人公は、北条早雲こと伊勢新九郎(盛時・宗瑞)。
新九郎は、政所執事伊勢貞親を宗家とする庶家備中伊勢氏、伊勢盛定の次男として京に生まれる。
兄貞興(さだおき)は、京で室町幕府申次として備中伊勢氏の将来を担い、次男の新九郎は備中の所領を管理するため備中荏原荘で幼少期から育った。

備中での平穏な暮らしは長続きしなかった。
十二のとき京では、将軍義政の跡目争いと、畠山氏・斯波氏の内紛などが絡んだ応仁の乱が勃発。
新九郎は、宗家のために証人(人質)となり、貞親と反目し伊勢国に逃れた将軍義政の弟義視を帰洛させるため荏原荘を旅立った。

義視とともに戻った京で目にしたのは、一面の焼け野原とおびただしい死骸の山だった。
京に戻ってすぐに敵方西軍の一色勢が義視邸を襲い、その中にいるはずのない兄貞興を見出してしまう。
義視を守る新九郎と貞興は、なりゆきから闘うことに。気が付けば兄貞興を討ち果たしていた。
呆然とし失意の新九郎は、出家しようとするが父盛定にこう諭される。
「わしや亡き新八(貞興)は、民のためより良き世を創ろうとしてきた」しかし、
「高位の者は、地位や財に縛られ利害を生み、利害の反する者と対立する魔と化している」
「そなたは大地に根をおろした生き方をせよ」

父に諭され荏原荘に戻った新九郎は、戦乱に荒れ果て、疫病に悩まされる民を救おうと私財を投げ打ち救恤小屋を設けるが、押し寄せる流民をすべて救うことなどとてもできない。
疫病が下火になったとき残ったのは、巨額の負債のみだった。

新九郎は、一族を守る為、意を決して上京する。魔の巣窟に身を投じ、幕府申次となるために。
京に戻った新九郎の見たものは、政道を顧みず、私利私欲に翻弄される魔物たちだった。
民の為、いつか「わしはこの国に楽土を築く」。
京での暮らしが長引くにつれ、漠然とした思いは信念へと変わっていった。

姉の依頼を受けて駿河へ下向した新九郎(盛時)は、先の駿河守護今川義忠と姉桃子の遺児竜王丸を今川家の家督に据えることに成功し、駿河に所領を持つ身となる。

これが後の北条氏関東制覇の足掛かりとなる。
将軍義政の庶兄、伊豆の堀越公方足利政知急死とその後の関東管領山内上杉家と古河公方派の台頭、さらに次の将軍足利義材との連携は、応仁の乱以後の乱れた世を立て直し、将軍家の権威を復し、民のための世を目指す細川政元らに、新将軍の擁立と政治体制の一新を決意させる。

新九郎は、細川政元の依頼を受け、亡き堀越公方政知の正室満と、遺児潤童子を惨殺した政知の庶子茶々丸を打つべく伊豆へ向かう。
伊豆の制覇は、新たな一歩に過ぎない。果てしない戦いの開幕でもある。
民の為、日本国を楽土に変える為に。


「黎明に起つ」伊東潤著 講談社時代小説文庫 978406293424


橋本

歴史への招待 60) 天下人の父・織田信秀

2017/05/21 6:27:

信長の父信秀について主に書かれた本は、一部の歴史書を除いてほとんどなく、信長について数多くの著作を有する谷口氏のこの著書は、信長を知る上でも非常に興味深いものです。

織田家は、守護代家の織田伊勢守家が嫡流で代々尾張の守護代を務めてきたが、応仁・文明の乱を経て、支流の織田大和守家が次第に力をつけ、敏定のとき幕府より守護代に任命される。
その後、伊勢守家が尾張上四郡、大和守家が下四郡を支配するようになるが、次第に実権は守護代の家臣、奉行衆に移っていく。

大和守家の三奉行の一つ織田弾正忠家の発展は、信長の祖父信貞(信定)の津島支配に負うところが大きい。
当時の津島は、伊勢湾に近い港町で、加えて全国規模の信仰の対象だった牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)の門前町でもある有数の商業地だった。
津島の経済力を支配下に収めた弾正忠家は、信秀の代には津島と同じ港町で、熱田神宮の門前町でもある熱田をも支配下に納め、その経済力は他家を圧倒し尾張の盟主の地位に就いた。

信秀は、尾張国内だけでなく、北は美濃の齋藤氏、東は今川氏とも対立し、時には尾張内の勢力争い、時には尾張の盟主としての対外戦争と、席の温まる間もない状態でしたが、尾張・三河の国境に位置する水野氏と同盟し、嫡男信長に美濃の齋藤道三の娘を迎えることで和睦を成立させ、孤立からは脱することが出来ました。

しかし、その後信秀は病魔に侵され、42歳の若さで世を去ります。
信長の信秀葬儀での有名な奇行や、後の弟信勝との対立から、信長と信秀には親子の確執があったのではないかと言われていますが、信秀は終始信長を家督として処遇しています。

信長は、よく独創的で革新的な人物と評されるのですが、多くのことを信秀から学んだのではないかと思われます。
信長の代表作とも言われる「楽市楽座」にしても、信長の領域すべてで実施されたものではなく、早急に城下町を発展させたい思惑から安土など一部で行われたに過ぎず、これは経済を地域支配の根源とする信秀の考えを受け継いだもので、京や堺では逆に既存の商人を保護しています。

宗教の弾圧についても、信長は信仰を否定した訳ではなく、信長の支配を受け入れない一向宗を敵としたもので、他の大名家との戦いと元は同じなのです。

信長の外交と戦い方についても、信秀の影響が強く表れています。
自分自身の結婚自体が政略結婚でしたが、道三との同盟は、その後の信長に大きな利益をもたらし、危機を救われています。このことに鑑み、信長は兄弟や子供の結婚を同盟の絆とする血縁外交を多用します。
また、戦いでは、信秀同様籠城戦は一度もなく、常に外で戦うことを旨としています。援軍のない籠城は死を意味することを理解している信長は、誰が見ても勝ち目のない今川義元との戦いでも、活路を見出し勝利を導きました。

最後に居城の変遷です。
信秀は、勝幡(しょばた)城、那古野城、古渡城、末盛城と本拠を移し、信長は、那古野城、清須城、小牧城、岐阜城、安土城と版図の拡大に伴い居城を移しています。
躑躅ヶ崎館を動かなかった信玄、春日山城の謙信、小田原城を五代を通じて居城とした北条氏など本拠地を変えないのが一般的なのに比して、信秀、信長とも、その時の状況に応じて最も優れた地に本拠を定めている。信秀の合理性を信長も受け継いでいると言えるでしょう。

このように信長は、多くを父信秀に学び、父の行いを倣い、時には父を乗り越え天下人への道を歩んでいったのです。


「天下人の父・織田信秀」谷口克広著 祥伝社新書 978439611501



橋本

歴史への招待 59) その後の慶喜

2017/05/11 6:56:

最後の将軍、徳川慶喜。
大政奉還をなして、徳川幕府に終焉をもたらした。鳥羽・伏見以降は朝敵となることを嫌い、ひたすら恭順を貫き、脆弱な新政府軍と旧幕府軍との本格的な内乱を防いだとも言える。

上野寛永寺から水戸へ向かう慶喜。歴史上の慶喜はそこで終わりです。
しかし大政奉還時32歳。慶喜はその後大正時代76歳までひっそりと生きたのです。
徳川慶喜について書かれた本は、将軍就任前から、大政奉還までを取り上げたものがほとんどで、その後半生はほとんど知られていません。

わずかに1982年発行の「聞き書き 徳川慶喜残照」に慶喜身の回りの人々からの聞き書きとして後半生を紹介しているくらいのものでした。

たしかに慶喜は大政奉還後、その歴史的意義を失ったのかもしれません。それに権力者が没落する例は、洋の東西を問わず枚挙がなく珍しくもなんともないでしょう。
しかし、多くの事例では旧権力者は、死亡したり行方不明だったり、幽閉され悲惨な末路をたどることが通常なのに比して、慶喜は平凡な後半生を送り、畳の上で亡くなっていることが非凡と言えるのです。

本書では、慶喜が長い静岡時代にどのような生活をを送っていたのか。
慶喜が旧幕臣にどのような対応をとったのか。
徳川宗家と慶喜家の関係、朝廷・皇室への慶喜の対応とその変遷などを、慶喜家の「家扶日記」(家宰が記した慶喜家の記録)から紹介しています。

慶応四年七月に水戸から静岡へ転居した慶喜は、ここでも徳川家の菩提寺宝台院での謹慎生活を続ける。
謹慎・恭順の姿勢は、先に挙げた通り、鳥羽・伏見以降一貫して貫かれているのですが、幕臣の中では少数派だった勝海舟、大久保一翁、山岡鉄太郎らの恭順派とも言える人々の意志が強く働いていて、静岡での隠居生活にも大きな影響を与えていました。

勝海舟らは、慶喜の助命、徳川家の存続に奮闘し、慶喜と徳川宗家を救ったとも言えますが、多くの幕臣から見れば、慶喜を含め裏切り者であり、許せない存在だったのでしょう。
それが、慶喜が旧幕臣に頑なに会おうとしなかった理由でもあるのです。

慶喜の謹慎が解けた後の私生活は、ごく親しい人々と趣味に没頭し、子宝にも恵まれ平穏な日々を過ごすことになりますが、公の場に出ることは徳川宗家を隠れ蓑に拒み、政治的な発言は慎重に避け続けています。

そんな慶喜に転機が訪れるのは、東京巣鴨に転居し、新たな交流関係が生まれた明治三十年以降です。
明治三十一年には、初の参内を果たし明治天皇・皇后との拝謁が実現する。
この日、慶喜と明治天皇は会見するだけでなく、親しく酒肴を共にし、お互いのわだかまりを氷解させたようです。
この後は、宮中行事には欠かすことなく招待され、皇室との関係は円満に推移し、明治三十五年には人臣最高の公爵にも列せられ、貴族院議員にも名を連ね名実ともに名誉を回復する。

征夷大将軍から一転して朝敵となり、逼塞の日々を強いられた慶喜は、明治の元勲と言われる人々、木戸、西郷、大久保や伊藤、明治天皇よりも長生きし明治と言う時代の誕生から終焉までを見届け、何も語らず大往生と言える生涯を終えるのです。


「その後の慶喜」家近良樹著 ちくま文庫 978448043422


橋本

歴史への招待 58) なぜ会津は希代の雄藩になったか

2017/05/01 6:01:

日本史の教科書で習った江戸時代の三大改革の一つ老中松平定信の寛政の改革。
陸奥白河藩の藩主であった定信が、寛政の改革の最中、国家老たちに「会津の田中三郎兵衛に笑われぬようにせよ」と言わしめたのは、会津藩家老、田中玄幸(はるなか)。

そもそも会津藩は、藩祖保科正之が会津23万石に移封された寛永二十年(1643)に始まり、正之は入部当初から年貢率を引き下げるなど民に優しい政を心掛けた数少ない藩でした。
その甲斐あり、当初11万だった人口は着実に増え続け二代正経(まさつね)の時代には16万に届こうかと言うまでになる。
しかし、在職50年に及んだ三代正容(まさかた)の時代には、微増しかせず享保三年(1718)をピークに減少に転じてしまう。

減少傾向はその後も続き、五代容頌(かたのぶ)の頃には13万人台にまで落ち込む。
これは例年のように凶作が続き、農村が疲弊し産子殺しが増加したためで、藩としても年貢率の減免や飢餓防止策など数々の救済策を施すが、人口減には歯止めはかからなかった。

人口減少と反比例して増え続けたのが藩の借入金。
凶作や飢饉が続き、藩の収入は減っても救済策などで支出は増え続け、さらに人口減が年貢収入の減少へと悪循環が重なり、容頌の治世安永元年(1750)には借入金は57万両にもなってしまった。

藩も無策だった訳ではない。度々150石以上で3割、それ以下の者へは2割の借知(知行借り上げ)を命じたが、焼け石に水。貸主からは新たな借り入れを断られたり、評定所に訴え出られるまでになってしまう。

玄幸の改革は、天明七年(1787)から始まるのですが、彼の改革で注目すべきは、まず社倉米(飢饉時貸出のための備蓄)の総高を引き上げたり、社倉米の返済が滞ったもの、年貢未納の古いものについては免除したことで、藩の借金返済よりも、民の救済を先とする驚きの改革なのです。

次には、よくあることとも言える地場産業育成策ですが、玄幸のものは他藩とは趣が違います。
たとえば、実から蝋がとれ、ロウソクの原料となり、幹に傷をつけると漆液のとれる漆の木は、無理に傷を付けるとすぐ枯れてしまう。そこで一本づつ戸籍を作り保護育成に努めるのですが、その数なんと180万本。
また、酒造業は正之の頃から奨励されていたが、上酒とは言えず藩外には出せないものだったが、摂津の灘から杜氏を招き評判の良い清酒を造れるようになった。
さらに養蚕業では隣の福島藩より苗を買い入れ普及に努め、藩主導で桑の葉の買い取りまで行った。蚕から取れる絹糸を絹織物業として育成するために、これも達人を京都西陣から招いき家中に指導をいきわたらせた。
質素な藩風の会津藩では、絹織物は普及していなかったが、自分や家族が織ったものは着用できるとしたところ、会津家中の婦女で機織り機を持たないものがいないくらいの普及を見せた。

その他にも、松茸の栽培や鯉の養殖、漆器の製造など数々の地場産業を育成し、会津の名産に育て上げた。

玄幸の改革は、それだけではない。
最も重点の置かれたのは、教育改革と軍制改革だった。時代に即した教育の充実と、実践的かつ近代的な軍制改革により、会津は注目される雄藩となった。

その後、幕末に薩摩・長州と対峙し、佐幕派の領袖となったのは、改革の成功が招いた皮肉な結果でした。


「なぜ会津は希代の雄藩になったか」中村彰彦著 PHP新書 978456982679


橋本

歴史への招待 57) 上杉謙信の夢と野望

2017/04/21 6:59:

謙信の父、長尾為景は越後の守護代で実質的な越後の支配者でした。
上杉謙信と言えば、筋目を守り、助けを求められれば損得を顧みず助太刀する「義将」のイメージがありますが、彼の行動は彼の個人的な主義からではなく、幕府の権威回復を目指した政治的なものでした。

彼の公儀を重んずる考えの元となるものは、一つには父の影響があります。
父為景は、越後守護代として権勢をふるう訳ですが、守護や幕府の権威を利用こそすれ、尊崇する気持ちはかけらもない梟雄と言ってもよい存在でした。しかし権威の使い道はしっかり心得、反為景派の上条定兼等の挙兵の危機に際しては、朝廷に働きかけて越後国内平定の治罰の綸旨を拝命していたのでした。

当時の朝命と「錦の御旗」は、反為景派を分裂させ、裏切りをも正当化するほど効力のあるもので、幼い虎千代(謙信)には強烈な印象として残ります。

もう一つには、兄晴景の存在があります。
虎千代は、兄を支える存在として徹底して儒教を教え込まれました。しかし、晴景は病弱で守護代の重任を果たすことが出来ず、家臣の推挙もあり止む無く虎千代が守護代に就くのですが、兄の存在に変わるものとして公儀、幕府があったようです。

また、謙信の不犯の誓いは有名で、軍神毘沙門天に功徳を求めて「不邪淫」の戒律を守ったなどと言われていますが、これも真実は、家督を譲られた時、晴景の嫡男が成長した時に家督を還すと約束したからというのが、どうも真相のようです。
しかし、この誓いも兄の子が早世してしまったことで無に帰してしまい、謙信亡き後、相続をめぐる争い「御館の乱:おたてのらん」を引き起こすことになってしまいます。

謙信の度重なる関東、信濃への出兵は、救いを求められたからと言うのは無論ですが、大局的には公儀の威信・威令の回復の為、まず関東を従え西上し、戦国の世を終わらせるという大義があったのです。

永禄三年から四年(1560〜61年)にかけた関東出兵では、瞬く間に北条方の関東諸城を落とし、関東勢を傘下に収めて小田原城を包囲するまでの勢いを見せる。
鎌倉に関東諸将を集め推戴される形で関東管領職に就きます。ここで北条氏を滅ぼすか従えていれば、天下静謐を目指した上洛戦が始まったのでしょう。

また、信玄との数時に亘る川中島の戦いは、信濃をどちらが勢力下に置くかという観点からではなく、公儀のため関東経略、上洛を目指す謙信と標的とされた武田家信玄の、存続を賭けた決戦のための決戦だったのです。

しかし、関東では諸将との不和や北条氏の巻き返しに合い、信濃では信玄との戦いはこう着状態となってしまい、謙信の壮大な夢は幻となってしまいます。

その後は、将軍義昭の要請から北陸道からの上洛を目指し、信長と激しく対峙します。
一時、越中から能登、加賀をも席巻し、織田軍団に圧勝する場面もあり、信長を苦境に追い込みますが、一時帰郷した春日山城で亡くなってしまいます。

室町幕府の権威を回復する夢は潰えましたが、謙信の生き方は、自領の維持・拡大を目指した戦国大名の中で出色であり、後世の私たちにも感銘を与え続けるのではないでしょうか。


「上杉謙信の夢と野望」乃至政彦著 KKベストセラーズ(ワニ文庫) 978458439394


橋本

歴史への招待 56) 島津義弘伝

2017/04/11 7:01:

二十万の将兵を動員した豊臣秀吉の九州征伐。
戦らしい戦は、日向根白坂の戦いのみで、数に圧倒され降伏に追い込まれた。
九州全域を制覇する目前で、秀吉の軍門に下り、薩摩・大隅二国と日向の一部に押し込まれた島津。

軍神と言われた四男家久が急逝したのも秀吉の陰謀と言われ、義久(龍伯)は当主としての権限を大幅に制限され、次男の義弘が表向きの名代とされ、薩摩は義久、大隅は義弘、日向の一部は家久の嫡男忠豊へと安堵されるなど、家中の分断を図られる。

他国に比して武士の比率の高い島津は、領土を大幅に削減されたため家臣は皆、疲弊に喘ぐことに。
追い打ちをかけるように朝鮮に出兵を命ぜられるが、家臣の不満は高く無理に軍役を満たすことはできなかった。

さらに、あろうことか朝鮮出兵への援軍を率いた家臣梅北国兼が、肥後加藤清正の領地で挙兵。しかも、国兼等の挙兵は、あっと言う間に鎮圧され、これも秀吉の罠だと判る、が時遅し。
揚句、九州征伐時の弟歳久(晴蓑)の行状を今頃秀吉に咎められ、龍伯は弟を見捨てざる負えなくされる。

しかし、秀吉の最終目標は、それだけではなかった。領内の総検地。
頑なに拒んできた検地を、度重なる不祥事を理由に改易をちらつかせることで受け入れさせ、しかも義久、義弘を含め島津家中の領地変えまで、秀吉の命で行うという。
無理やり島津を豊臣体制に組み込もうとする秀吉に、龍伯は武士の矜持を守るか、家を守るか苦慮するが、苦悩の末島津の存続を優先させることに。

そんな中、義弘は朝鮮にて不毛な戦いを強いられるも、泗川の戦いでは、五千の手勢で明の精鋭十万を打ち破り、「鬼石曼子:グイシーマンズ」とその勇猛さを恐れられた。

秀吉の死後、天下を狙う家康と豊臣体制を堅持したい三成の争いは遂に火を噴く。
兄龍伯をはじめ義弘も、恨みこそあれ何の恩もない豊臣側に立つことは念頭になかったが、女房衆を人質に取られ、止む無く関ケ原では西軍に組することに。
わずか千足らずの島津軍。義弘の具申はことごとく無視され、意に沿わぬ形で関ケ原に布陣。
積極的には戦いに参加せず、小早川の裏切りにより大勢が決した後、意表を突く家康本陣への突進。家康は一時窮地に陥りあわやと言うまで追い込まれる。

堅陣に阻まれ、家康を打ち取ることは出来なかったが、その後の退陣でみせた島津の「捨てかまり」は、勝ちに勢いづく東軍を見事に振り切り、義弘は大坂、薩摩へと逃れることが出来、諸将の畏怖とともに東軍に一矢報いることが出来た。

その後、西軍方の大名が改易、大幅な所領没収にあう中。島津だけは寸土も削られることなく、安堵されることになった。
それは、龍伯の深慮遠謀と忍耐強い交渉とともに、義弘と島津の強さがあったからなのです。


島津義弘伝 上巻「衝天の剣」 978475841289
島津義弘伝 下巻「回天の剣」 978475841297


橋本

歴史への招待 55) 史伝西郷隆盛

2017/04/01 5:34:

著者、海音寺氏は、本書の冒頭西郷の出自について触れています。
西郷氏は肥後の菊池氏の末孫で、西郷氏が島津氏に仕えたのは江戸元禄の頃だったという。どのような経緯で召し抱えられたのかは判らない。
家禄は少なく50石そこそこ、士分としても下から二番目の待遇だった。

西郷家は子だくさんで、小吉(隆盛)の下に三男三女、家はいたって貧しかった。
そんな西郷が維新の立役者となれたのは、何故だろうか。
学問に秀でていたのは間違いないだろう。しかし、それだけではない。

一つには、多くの若者が西郷を慕い、西郷のためなら命をも惜しまないほど心服していた。
これは薩摩の独特の教育制度が深く係わっている。
「郷中教育」。城下を区分けして学区とし、青少年の自治的教育機関とした郷中教育。
団員は七、八歳から二十四歳まで、妻帯するか役に付かない限り郷中に所属し、学問から武術まで年長の得意な者から教わり、指導を受ける。この制度により団員どうしは深く交わり固い絆で結ばれる。

一つには、藩主斉彬に巡り合えたこと。
斉彬は西郷に未完の大器を見出し、一方ならず愛情を注ぎ、その教育に努めた。
さらに、人物・見識ともに優れた水戸の藤田東湖、戸田蓬軒の二人に西郷の教導を依頼したり、斉彬の使者として藩の外交を担わせ、他藩の有志との交わりを深めさせたりと、その見識を広げさせた。

その後、斉彬の意を受けて、将軍継嗣問題、通商条約問題で奔走するも、井伊大老の就任ですべては水泡に帰した。
起死回生の一手として、斉彬が朝廷守護を名目に藩兵を率い上京し、勅命をもって幕府の制度改革を計る、つまり武力クーデターを目指したが斉彬の急逝により頓挫。

斉彬亡き後の藩論は一変して保守化し、西郷は終わるかに見えた。事実、藩論の保守化は清水寺の僧月照との入水事件に西郷を追い込み、幕府からの追及を避けるためとは言え大島での隠棲を強い、藩政から遠ざからざるおえなかった。
しかし、苦難の時を経て西郷はさらに一回りも大きな人物として復活する。

「おれは自らの意志でなく生き返った。これは天意が働いているのではないだろうか。」
「おいは一旦死んだ人間だ。土中の骨に等しい。これからのおいの命は、おいのものではなか。世の為、国の為に捧げよと、天がおいに預けたものだ」

深く肝に命ずる西郷は、幕末の風雲に、乗り出していくのでした。

「史伝西郷隆盛」海音寺潮五郎著 文春文庫 978416790794



橋本

歴史への招待 54) 光秀の定理

2017/03/21 5:54:

物語は、一風変わった賭け事の場面から始まる。
主人公の一人、僧「愚息」は足軽相手に椀を使った賭けをしている。
4つの椀を伏せ、相手に見せずに1つに石ころを入れ当てさせる。相手が1つを指定したところで、入ってない椀を2つ空けて見せ、再度どちらでも賭けさせる。

当たりの確率は二分の一のはず。
しかし次第に愚息が勝ちを重ね、最後は圧倒的に愚息が勝ちを収める。まやかしはしていない。石は最初に愚息が入れた椀からしか出てこない。
傍観者の新九郎には、わけがわからない。しかし愚息が運で勝っているのではないことだけは解る。

関東の相模で剣術修行に明け暮れていた新九郎は、剣で一旗揚げようと上京してきたが、路銀も尽き、頼る術もない身では、背に腹は代えられないと辻強盗を思い立つ。
今夜も、一条大路と東洞院大路の辻へ来ると、いつの間にか気配も感じさせず愚息が現れる。

そこへ、
さく、さく、と切れのいい足音。一条大路の向こうから一つの影が近づいてくる。微塵も上下しない腰を据えたような歩き方から、相当に出来る。
大路の中央で対峙する二人。
「命が惜しくば、懐並びに腰のものを、置いていってもらおう」新九郎がそう言い、お互い太刀を抜き放つ。
たしかに剣の心得はかなりあるが、わしの方が一段、技は勝る。
そう新九郎が確信した瞬間、
「やめよう」相手が太刀と脇差を差し出した。しかし、懐のものは大切なものゆえ、渡せないという。さらに、丸腰の相手は切れまいと見透かされてしまった。
愚息には笑いながら「おまえの負けじゃ」「いっそ大小も返してやれ」と言われてしまう。

これが、光秀と愚息、新九郎の出会いだった。
その後、お互いに行き来するようになり、光秀が信長家臣団の中で異例の出世を遂げても変わらなかった。
いつも供も連れず単騎でやってくる光秀。一般的には礼儀正しく冷たい印象の光秀も、打ち解けた相手には親しくげで、自分の弱さも平気でさらけ出す。そういう可愛げが、愚息や新九郎が光秀を放っておけない理由だった。

本能寺の変から15年。光秀は何故謀叛など起こしたのだろうか。
遺恨説や秀吉、家康の陰謀説、朝廷の影など人はとやかく言うが、光秀は軍法に信長の恩を明記するほどで、遺恨から謀叛したとは思えない。まして誰かの操り人形だったなどありえない。
「十兵衛は男ぞ」大それた事に及ぶには、理(ことわり)があるはず。

とすれば愚息と新九郎が今宵することは一つ、光秀の身になって理を明らかにすることだ。


「光秀の定理」垣根涼介著 角川文庫 978404102810


橋本