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歴史への招待 87) 維新と戦った男 大鳥圭介

2018/02/21 6:02:

大鳥圭介は、天保四年(1833)播州赤穂の医家に生まれた。
大坂の緒方洪庵塾で、一二を争う秀才で、緒方塾では蘭語と仏語を学び、兵法書を読み漁るようになる。
知識欲に取りつかれた圭介は、江戸にのぼり大木忠益(ただます)塾の塾頭となり、兵学の専門家としての名声を得、二十五歳にして、幕府公設の江川英敏(ひでとし)塾から教授として招かれるまでになる。

慶応二年(1866)、三十四歳の時、遂に幕臣に取り立てられ、幕府の洋学教育・研究の頂点「開成所」教授に就任する。
その頃、幕府は仏公使ロッシュの助言により、幕府陸軍の仏式軍制への切り替えのため、軍事顧問団を招聘していた。
軍事顧問団の最初の指導を経て歩兵頭並に出世した圭介は、軟弱で忍耐力のない幕臣ではなく、従順だが弱々しい農民でもなく、無頼の徒とも言える「馬丁・陸尺(ろくしゃく)・雲助・博徒・火消」などの中から体格に優れた者のみを集め「伝習隊」三千を結成し、その総指揮官となった。

薩長中心の不穏な動きに対抗すべく、猛訓練を重ねる伝習隊だったが、鳥羽伏見の戦いには間に合わず、慶喜以下朝敵となった元幕臣達は、すっかり腰が引け、恭順を唱えるようになってしまった。
徳川恩顧の親藩・譜代の大名家だけでなく、幕臣すら徳川家のために闘おうとしない。

実際に東征軍に対抗すべく立ち上がったのは、歩兵奉行となった大鳥ほか、一部の下級幕臣らだった。
この後、大鳥らは伝習隊その他の部隊を率い、北関東で戦い、会津で戦い、海を渡って函館五稜郭でも戦った。
しかし大鳥らは、一部の局地的勝利以外は、負け続けた。

彼らは、何故勝てない戦いに挑み続けたのか。
彼らは、武士の世、武士としての最後の戦いを全うしたのだ。
フランス格言「行けるところまで行き、しかるべき場所で死ね」を体現するために。


「維新と戦った男 大鳥圭介」伊東潤著 新潮文庫 978410126172

橋本

歴史への招待 86) うつろ屋軍師

2018/02/11 6:45:

丹羽長秀が家臣、江口三郎右衛門正吉(まさよし)。人は彼のことを「空論屋三右(うつろやさんえ)」と言う。

信長の紀伊雑賀攻めでは、十万もの大軍でも攻めあぐねていた中野城で、一番槍の功名をあげるほどの武士でありながら、空論癖とも言える想像力と空想力が有り過ぎて、人からは妄想家と見られてしまう欠点がある。
しかし、主君長秀は正吉に期待するところが大きく、二十歳そこそこの正吉を若狭国吉城代に据えた。大抜擢である。

天正十年(1582)本能寺の変の後、清須会議を前にした秀吉が、佐和山城に長秀を訪ねてきた。
織田家の後継者、ひいては天下人を決める会議を有利に運ぶため、秀吉は事前の打ち合わせに訪れたのだった。
このとき同席を許されたことにより、秀吉を身近に知る身となる。
その後、秀吉と勝家の対決前には、密かに秀吉と二人だけの軍議に参加し、我知らず秀吉に賤ヶ岳勝利の構想を示唆していた。

勝家を倒した秀吉は、自身を一貫して支持し続けた長秀に報いるため越前、若狭一国、加賀半国、近江の二郡あわせて百二十三万石を与えた。
しかし長秀は、大封を得ても喜びより憂いが深く、後の災いを予見しながら世を去る。

長秀が亡くなると、嫡男の長重(ながしげ)が後を継いだが、長秀の予見通り京師近隣に大封を持つ丹羽家の存続を秀吉は許さなかった。
謀反の言いがかりをつけ改易にされるところ、正吉らの果断な処置により改易は免れたが若狭一国十五万石に落とされ、さらに九州征伐では活躍の場を与えられない中、先代に比べ働きが悪いと、加賀松任四万石に再度減封される。

度重なる大減封で、多くの家臣が丹羽家を去ったが、残った正吉ら家臣と長重との距離は縮まり、正吉は筆頭家老として空論(うつろ)を藩の政に生かせる立場に立った。
まず藩を挙げて取り組んだのは、先代が遺してくれた職人集団による手取川支流の治水工事。
技術力の高さを秀吉に認めさせ、売り込むためだった。

秀吉の北条征伐に従軍した丹羽軍には、多数の木工、石工を帯同していた。
箱根山中城攻めで、抜け駆けの功名を挙げた正吉は、褒美のかわりに付城の石垣工事を引き受けた。手取川の治水にはじまる遠大な空論(うつろ)は、正吉ら丹羽家家臣団の活躍で、加賀小松十二万五千石への加増となって結実した。

その後も、紆余曲折する丹羽家。そこに後悔はない。損得ではなく、先代長秀の志を継いで、真の武士として生きると決めたのだから・・・。

「うつろ屋軍師」箕輪 諒著 祥伝社文庫 978439634387

橋本

歴史への招待 85) 雪に咲く

2018/02/01 7:01:

小栗美作(みまさか)は、寛永3年(1626)越後高田松平家の筆頭家老の嫡男として生まれた。

越後高田藩は、元は越前松平家68万石の惣領筋で、二代目忠直の不行跡からの改易で26万石に減らされ、高田へ転封されていた。
禄高を旧に復すには、開墾しかないと藩をあげて新田開発に取り組んでいた頃、藩主光長の父忠直が配流先の大分豊後で没すると、異母弟妹3人、市正(いちのかみ)、大蔵(おおくら)、お閑が高田へ引取られてきた。

お閑に一目ぼれした美作は、三弟妹初お目見えの席で、お閑を嫁にと光長に申し出て許しを得てしまう。
普段は控えめな美作だが、肝心のことには果断に対処する。
大地震で、父を亡くし、城だけでなく城下も壊滅した高田藩を復興させたのは、美作や同じ父の家老職を継いだ幼馴染の荻田本繁(もとしげ)らの若い世代の行動力と発想力だった。

次々と改革の矢を放ち、見事に高田を復興させ、さらに発展させることが出来たのは、一つには幕閣の大老酒井雅楽頭との太い絆から五万両もの大金を幕府に出させることができたことと、若手の下級藩士を多数登用し藩政改革を行ったことにあった。

しかし、藩政改革と高田の街の振興は、一方では譜代の上級藩士の反発を招く結果となった。
藩の財政改革のための知行制から蔵米制への変更も、余得がなくなる大身の者ほど不評だった。

そこへさらに追い打ちとなったのが、藩主光長の継嗣、綱賢(つなかた)が四十二歳の壮年で亡くなってしまったことだ。
綱賢には子がない。光長の異母弟市正はすでに亡く、市正の子、万徳丸十三歳と、市正の弟、大蔵四十三歳が世継候補となった。

血筋から万徳丸を押す美作。藩主光長の絶大な信頼を得ている美作の推挙により、万徳丸は継嗣と定められ一件落着かと思いきや。
大蔵と譜代家臣の不平分子が徒党を組み「御為方」と称し、美作ら改革の主流派を「逆意方」と呼び対立を深めていく。
これが越後騒動のはじまりである。

争いの元は、私利私欲による不満である。誹謗中傷が高じて、徒党による一揆に発展する。
しかし、高田藩の本当の悲劇は、後に綱吉が将軍となることにあるのだが・・・。


「雪に咲く」村木 嵐著 PHP文芸文庫 978456976798

橋本

歴史への招待 84) 志士の峠

2018/01/21 8:16:

その日、文久3年(1863)8月14日の八つ時(午前3時)。
京都東山の方広寺境内に、公家中山忠光をはじめ三十九人の若者が集まった。
ほぼ半数の19人が土佐出身の浪士、他は久留米藩、鳥取藩、島原藩などの様々な藩からの出身者で圧倒的に二十代が多い。最年長でも三十五歳、最年少は忠光ともう一人十九歳だった。

前日の13日に、孝明天皇が攘夷訴願のため神武天皇陵や春日大社を参拝する大和行幸が告知された。
帝に攘夷を約束しながら何度も反故にしてきた幕府を追い詰め、帝の大和行幸を契機として諸藩を束ね、皇軍として江戸に攻め入り幕府を倒し、新しい政府を樹立する。
大和行幸の隠された目的である。

忠光らは、帝の先触れとして大和に向けて意気揚々と出発した。
忠光の父は、権大納言であり急進的尊王攘夷派でもある中山忠能(ただやす)。姉の慶子(よしこ)は祐宮(さちのみや:後の明治天皇)の生母である。
忠光は公家でありながら、父の影響から尊王攘夷の志士の仲間入りをし、今回の義挙の総大将に祭り上げられた。

忠光ら皇軍先鋒隊の最初の標的は、河内から大和に入った国境に近い幕府の五条代官所。
不意を突いた一行は、代官らを討ち代官所の占拠に成功する。
さらに、十津川郷士千二百の参加を得て、大和国の制覇は順調に進むかに見えたが、京都では18日に政変が起こり、大和行幸は無期延期、尊王攘夷派公卿や長州藩は京都から追放されてしまった。

急遽、割拠先として近隣の高取藩を目指した先鋒隊(この後天誅組と称する)は、小藩と見くびったため手痛い反撃を受け、さらに幕府より諸藩の追討軍を差し向けられると、応援の十津川郷士にも見限られ、孤立無援となってしまう。
義挙の立ち上げから、わずか数日で暴徒に落ちた中山ら天誅組。

諸藩の追討を受けながら、満身創痍で南大和の山々を駆け廻る志士達は、ともすれば自暴自棄になり、死に急ごうとする。
そんな中、忠光は天誅組として死んでいった者たちのためにも、逃げ切って後再挙を計り、天誅組の正義を世に知らしめようと決意する。
討幕の先駆けとなるべく挙兵した忠光ら若き志士達は、運命に翻弄されてしまうのか・・・。


「志士の峠」植松三十里著 中公文庫 978412206497

橋本

歴史への招待 83) 江戸開城

2018/01/11 6:53:

1868年〜9年(慶応4年から明治2年)の戊辰戦争は、鳥羽・伏見の戦いに始まり、彰義隊の上野戦争、奥羽越列藩同盟の成立と北越・東北戦争、函館五稜郭の戦いまでの、一連の幕府軍・旧幕府軍と官軍の戦いを言う。
慶応4年は明治元年に改元しているので、足かけ2年の戦いであった。

その中で、江戸城の無血開城は、ただ単に官軍が旧幕府軍を圧倒屈服させ、開城させたものではないと言う点で異色であり、また西郷と勝の二人の会見だけで成ったと言うことも奇跡としか言いようがない。

何故なら薩摩・長州らの官軍が、強大な軍事力と最新兵器で、旧幕府軍を圧倒したかに思える戊辰戦争だが、実は一部装備・訓練も行き届いた薩長軍が存在したことは事実としても、数・質に勝る軍事力を備えていたのは、旧幕府軍・徳川家側だったのだ。
鳥羽・伏見の戦いも、初戦で敗退したが、大坂には万を超える備えがあったにもかかわらず、慶喜が朝敵となることを恐れて江戸へ逃げ帰り、負けが確定した。

鳥羽・伏見の敗戦で、大政奉還と、その後の王政復古にも懐疑的で日和見だった西国諸藩は、雪崩をうって官軍側についた。
親藩・譜代・外様の区別なく、箱根以西で徳川方の藩はないと言えるくらいの大変貌だった。
しかし、関東・東北の諸藩は、薩長中心の官軍に従うことを良しとせず、徳川方は、いまだ十分官軍に対抗できる勢力を保っていた。
しかも、海軍力は圧倒的に徳川家側が優勢であった。

朝敵慶喜を討つとの名目で発せられた東征軍と旧幕府軍が全面戦争に至った場合、日本は未曽有の内乱状態となる。
薩長を支援する英国、徳川家を支援する仏国。どちらが勝つにしても国内は疲弊し、欧米列強の介入を招くことになっただろう。

内乱を防ぐことになった「江戸開城」は、戊辰戦争と明治維新の行く末を決定付ける出来事だった。
絶対恭順と徳川家の覇権回復に揺れ動きながらも最終的に恭順を貫いた慶喜も評価されるべきだが、何と言っても、多くの幕臣から裏切り者扱いされながら、当初より内戦回避、絶対恭順を唱え続けた勝海舟と、血の犠牲を求めて止まない討幕派の人々を抑え切り旧幕府軍・徳川家との全面戦争を避けた西郷隆盛は、やはり傑人と言うしかない。


「江戸開城」海音寺潮五郎著 新潮文庫 978410115709


橋本

歴史への招待 82) 天翔ける

2018/01/01 9:02:

「なき数によしやいるとも天翔(あまかけ)り御世を守らむ皇国(すめぐに)のため」
春嶽、享年六十三。辞世の歌である。

春嶽は徳川一門、御三卿田安家に生まれた。
本名は慶永、幼名は錦之丞である。十一代将軍家斉は伯父にあたり、十二代将軍家慶は従兄である。
御三卿の家に生まれた者の務めは、将軍となるかもしれない日に備え、日々勉学に勤しみ、己を鍛えることだった。
毎日、早朝に起きると自分で髪を整え、身支度をし、「大学」「論語」の素読をする。午後からは「手習稽古」などに励む、読書好きな子供だった。

天保九年(1838)春、慶永は将軍家慶の命により、十六代越前福井藩主となった。
十一歳の少年藩主である。
藩主慶永の側近、御用掛となったのは国学者である中根靫負(雪江)だった。
教育係りとして藩主としての責務を厳しく説く靫負の言を入れ、慶永は藩政改革に乗り出していく。
旧守派の家老らを退け、人事の刷新を図り、橋本左内ら人材登用で、改革に成果を上げた慶永は、積極的開国論に藩論を転じ、将軍継嗣問題にも深く係わるようになる。
左内らの尽力にもかかわらず、井伊直弼ら南紀派との政争に敗れた春嶽は、隠居を命じられ、逼塞を余儀なくされるかに思われた。が、
「百折不撓(ふとう)」(何度挫折してもくじけない)

思い直した春嶽は、熊本より横井小楠を招き、更なる改革に邁進する。小楠の指導により藩財政を立て直した春嶽は、政治総裁職として、将軍後見職の一橋慶喜や春嶽とともに四賢侯と言われた土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城らとともに、難しい国政の舵取りに向うことになる。

ペリー来航以来の未曽有の国難に際しても、「私」私利私欲、から逃れられない幕府、諸藩、公家らをしり目に、一人「公」国と民、のための政を貫こうと孤軍奮闘した春嶽。
政治を行うには清廉過ぎた春嶽。春嶽の目指す挙国一致は結局実現せず、薩長中心の討幕勢力により維新が実現する。しかし政界を退いた後も春嶽は国の行く末を案じ続けたようです。
辞世に国を思う気持ちが込められています。


「天翔ける」葉室麟著
KADOKAWA 978404105720

橋本

歴史への招待 81) 鳳雛の夢

2017/12/21 5:57:

伊達正宗、幼名は梵天丸。
伊達家当主輝宗と出羽国主最上義守の娘義姫との間に出来た嫡男である。
五歳の時に患った疱瘡により、顔にあばたが残った。だけでなく疱瘡の毒が右目に入り、右目は失明、しかも腫れによって眼窩から大きくはみ出している。
端正な顔立ちだった梵天丸は、醜く変貌し周囲の人々から疎まれ、最愛の母からも忌避されるようになってしまった。

梵天丸は、醜い顔を隠すように、うつむいたままで目立たず、声も出さないような子となった。
周囲の者には、大人しい、覇気がないと評判は最悪だったが、一人父輝宗だけは、梵天丸を愛し続けてくれた。
病が癒えると、父は禅僧虎哉宗乙(こさいそういつ)を、梵天丸の師として付けてくれた。
宗乙は、梵天丸に憤怒の表情で睨みつける不動明王の仏像を見せ、「不動明王は悪しきを追い払う降魔の仏。内にあるは、衆生を慈しみ守る優しい心」「そなたも伊達の惣領として守る側なのだ」と諭した。
「伊達を守る為に近隣を取る。征服した地の民も伊達の民、その民を守る為に、さらに周囲を併呑する。天下を統一すれば戦はなくなる」天下制覇のために宗乙は厳しく梵天丸を鍛えた。

初陣で城一つ。
元服し藤次郎正宗となった梵天丸は、十六で初陣を迎えた。
宿敵、相馬氏と大内・畠山の連合軍に、父輝宗は伊達の全軍を投じて迎え撃った。
正宗は、別働隊三千を率い、相馬方の金山城を攻めると見せて、別の金津城を攻めた。あわてて救援に赴いた相馬方の陣形の乱れを父の主力軍とともに撃ち、金津城を落とした。
「初陣で城一つ。古来稀なり」と父に絶賛された。

父をわが手で。
若くして当主となった正宗は、近隣を苛烈に攻め立てる。若年の当主と侮られないようにと抵抗する者を撫で斬りする正宗を危惧する輝宗は、畠山義継の降伏を仲介しようとするが、不覚にも質にとられ連れ去られようとする。
国境まで追跡した正宗は、遂に決断し父輝宗もろとも畠山勢を銃撃し、父を死なせてしまう。

惣無事令と宿敵葦名。
その後も、正宗は近隣の畠山、二階堂、葦名などとの攻防は一進一退、奥州制覇は夢のまた夢だったが、天下は大きく動いていた。
秀吉は、毛利、上杉、徳川らを傘下に納め、惣無事令に背いたとして九州を征伐、島津を下した。
焦る正宗は、葦名家重臣猪苗代盛国を調略し、遂に宿敵葦名を滅ぼした。
しかし、秀吉の惣無事令に背くことは明確で、しかも葦名は秀吉に臣従していた。

雌伏の日々
秀吉が北条征伐に20万の大軍を動員するに及び、遂に正宗は決断し秀吉に膝を屈する。
奥州制覇の夢を捨てたわけではないが、如何せん、天下の定まるのが早すぎた。
しかし、葦名の旧領会津は召し上げられるが、正宗の首はつながった。

その後も、奥州征伐で改易された諸家の旧臣らの一揆を支援したり、ポスト秀吉の関白秀次に接近し、二度死にかけているが、したたかな正宗は窮地を切り抜け、関ヶ原でも奥州制覇に向けた独自の動きをみせる。
風雲児正宗は、生まれてくるのが遅すぎた。しかし戦国の世も終わりを告げた徳川の時代、外様の改易が続く中にも、したたかに伊達家を守り通し、奥州制覇の夢を捨てることはなかった。


「鳳雛の夢」上巻 上田秀人著 光文社時代小説文庫 978433477550
「鳳雛の夢」中巻 978433477551
「鳳雛の夢」下巻 978433477552



橋本

歴史への招待 80) 呉漢

2017/12/11 6:08:

呉漢は、漢(前漢)末期南陽郡苑県の人で、城外の彭(ほう)氏の農場で働く雇人に過ぎなかった。
「赤貧洗うがごとし」。父はすでに亡く、母と兄、弟の四人暮らしだが、食費の負担を減らすために農場の長屋に住み込みで働いていた。

家を支えるために働き続けるしかない呉漢には、何の希望もない。しかし己の境遇を嘆くこともなく、他に怨嗟の目を向けることもなく、ただ黙々と耨(くわ)を振い土だけを見ていた。

そんな呉漢を、彭氏の長子彭寵を訪れた、彭寵の学友潘臨(はんりん)が見ていた。
潘臨は、呉漢に「たまには天を仰ぐべき。それでなくば地をうがつほどみつめるべきである。人が念う力は、小石を黄金に変える」と言った。

潘臨の儒者風の言動が気に入らず、腹を立て、またわが身の学のなさを痛感し哀しみに覆われた呉漢だったが、潘臨が彭寵に呉漢の働きぶりと人柄を好感をもって伝えたため、彭寵に認められ農場の若者を監督する立場になった。

立場が人を育てる。それまで人とのかかわりを拒むかのように寡黙で、ただ黙々と耨を振うだけの呉漢だったが、若者達には厳しく接しつつも、またよく彼らの話の聞き役となった。
呉漢には、人を見抜く目と人を引付ける力がある。
特別のことをしているようには見えないが、農場内の雰囲気が変わり、若者たちだけでなく、皆がきびきび働くようになり、農場は豊作となった。

この後、漢(前漢)は王莽の簒奪により新に変わった。
ある日、郷里の父老に供なわれ県庁に赴くと、意外にも亭長(官吏の休息所所長兼警察署長)に任命された。
これも、新野県の県宰(県令)となった潘臨の推挙によるものだった。

亭長は、訴訟なども取り扱うので司法の知識がいる。農場で知り合った不思議な知識人、祇登(きとう)先生が助けてくれた。その他従者となって呉漢を支えたのも農場で共に働いていた角斗と魏祥だったが、この三人は、この後も終生呉漢と共にあり、掛け替えのない師であり友となる。

亭長としての生活に馴染んだかと思う間もなく、故あって亭長を辞めざるをえなくなるが、紆余曲折を経て、北の彼方幽州安楽県の県令になる。
田舎の警察署長が、いきなり市長になったようなものだが、これも農場時代の友人、韓鴻の推挙によったのだ。

王莽の新は、急激な改革の嵐をもたらし、たちまち民心を失い各地で反乱が興る。
その中に、南陽の劉氏兄弟があった。弟劉秀は、王莽の新を滅ぼし皇帝として立った一族の劉玄に兄を誅されたが、恨みの色すら見せず更始帝のために働き、功を誇ることがない。

河北平定の為、幽州の南、冀州まで軍を進めていた劉秀だったが、邯鄲に漢の成帝の末裔を称する劉子輿が立ち、たちまち華北を席巻し、劉秀は窮地に陥った。

その時、呉漢は風聞に惑わされることなく、冷静に両者の行動を見極め、劉秀支援にまわった。
幽州の騎兵を率いた呉漢らの救援を得た劉秀は、劉子輿を倒し、皇帝として立つ。
人との出会いが、人の運命をも変える。劉秀は、呉漢を得たことで漢(後漢)を復興し光武帝となり全国を再統一した。
呉漢も、劉秀との出会いにより、後漢の大司馬(国防大臣)にまで昇る。
皇帝を信頼し、信頼され、一途に国と民を思い続けることで、呉漢は小石から黄金にかわったのだった。


「呉漢」上巻 宮城谷昌光著 中央公論新社 978412005018
「呉漢」下巻 978412005019


橋本

歴史への招待 79) 宗麟の海

2017/12/01 6:02:

大友五郎義鎮(よししげ)、後の宗麟は、幼い時から心臓の病気を抱え、病弱な子として周りから険しい目でみられてきた。
そのためもあり、義鎮が二十一歳になっても、父義鑑(よしあき)は跡継ぎを決めようとしない。
義鎮には,異母弟で十九歳なる八郎晴英と、年若い側室から生まれた三歳の塩市丸がいて、父義鑑は塩市丸を溺愛していた。

義鎮自身は、家督に執着していない。八郎でも塩市丸でも、父の望む跡継ぎを決めればよい。
しかし、周囲がそれを許さなかった。
あるとき、父より柞原八幡宮への代参を頼まれたが、義鑑は義鎮が留守の間に、塩市丸を世継と定め、義鎮を押す重臣を誅殺した。しかも義鎮暗殺を計ったのだ。

未然に計画を察知した義鎮は、かろうじて危難を免れたが、その後の展開は意外なものだった。
父義鑑の意を受けて、義鎮派の重臣を誅殺した一味は、返す刀で義鑑と塩市丸を襲い義鑑に重傷を負わせ、塩市丸を謀殺した。
義鑑を襲った一味は、八郎の母の出である周防の大名大内家の支援をえて、八郎に家督を継がせようと企んだのだ。

義鎮は、暗殺計画が成功したかに偽装し、密かに府内に舞い戻り、臨終まぎわの父義鑑と和解し、一味を打倒し大内家の家督を継いだ。
世に言う「大友二階崩れの変」に勝利した義鎮だったが、一門衆と地元に根を張る国衆との対立と言う、歴代当主が悩まされてきた根深い問題に直面せざる負えなかった。

若い当主は、事あるごとに結束し反抗する国衆の統率と、近隣からの外圧への対抗と、急を要し、しかも難しい対応を迫られていた。

義鎮は、一門衆を威嚇と懐柔で結束させ、謀反人を討ち、外圧の元凶大内家の支援を得た筑後の叔父菊池義武を破り、肥後の反乱も平定した。
さらに、大内義隆の家臣陶隆房と杉重矩を共謀させ、主君義隆を討たせ、父義鑑の仇をとった。
若くして、戦でも調略でも才能を発揮した義鎮は、大友家の後継者としての地位を確固たるものにしたのだった。

しかし、大内家の跡取りに、弟八郎を送り込み、長年の対立を解消できたと思うのも束の間。陶隆房が毛利元就に討たれ、大内家中は大混乱に陥る。
対応策を協議する中、家臣達は義鎮の意に反し、毛利からの誘いを受け、弟八郎を見捨てて、豊前、筑前二ヵ国を得ることを勧める。

悩みの末、義鎮は家臣の意志を尊重するが、これがその後の災いの元となった。
毛利との協調は束の間で、元就は和睦と進攻を繰り返し、大友家中に調略の手を伸ばし反乱を起こさせ、義鎮を悩ませ続けることになる。

苦悩に押し包まれそうになったとき思い出されるのは、ザビエルとの出会いの時、彼が義鎮に言った言葉だった。
「たとえ世界を手に入れたとしても、心が満たされなければ人は幸せにはなれない」
深く共感しながらも、洗礼を受けることは出来なかった。
逆に、家中で宗門とキリスト教信者の対立が深まるに及び、義鎮は出家し宗麟と名乗り、家中の対立・離反を防がざる負えなかった。

六か国の太守として仰がれた宗麟だが、その心のうちは、図らずもザビエルの指摘した通り、幸せとは言えないものだった。
長く辛い戦いと苦悩の果て、念願の洗礼を受け、信仰に生き心に平安を得ることが出来たのは、ずっと後のことでした。


「宗麟の海」安部龍太郎著 NHK出版 978414005690


橋本

歴史への招待 78) 冬を待つ城

2017/11/21 5:23:

久慈四郎正則は、長兄九戸政実(まさざね)の居城のある二戸へ向けて、雪の山道を急いでいた。
政実が、三戸城を居城とする南部信直への新年参賀を欠席すると聞いたから、直接兄の真意を問うためだった。

元々、九戸家は南部家の支流で、南部家を名目上の主家と仰ぎながらも、対等に近い間柄だった。
しかし、秀吉の奥州仕置により、中央集権化を計る豊臣政権は、南部家を主家と認め、九戸ほかの諸家に南部への臣従をもとめた。
今、新年参賀を拒むことは、豊臣政権への反逆とみなされ、南部もろとも滅ぼされてしまうに違いない。

しかも、南部信直と政実の関係は険悪と言ってよい。
それは南部家先代晴政没後、嫡子晴継の不慮の死への疑惑と、その後の家督争いに於いて、信直一派の力による相続に、政実が異議を唱えていたからである。

とは言え、ことここに至っては、我を折って参賀に赴かねば戦になる。
中の兄、実親と相談の結果、三男康実と叔父で長興寺の薩天和尚にも入ってもらい、家族会議を開き、政実を説得し、ようやく正月参賀に行くことを約束させることが出来た。

しかし、正月参賀の日、政実は参賀に訪れなかった。
正則はじめ三兄弟は窮地に立たされ、政実の嫡男亀千代を証人に出し、政実が信直に対面しわびを入れることを約して、かろうじてその場を繕った。

やっと和解の対面を迎えた日。政実が明らかにしたのは、恐るべき豊臣政権の人狩りの話だった。極寒の地、朝鮮への出兵に備え、奥羽の人々を人足として徴発すると言う。
信直にこの件への対応を迫るも、政実の話を信用せず、和解は物別れとなった。
しかも、その場で政実が刺客に襲われるに及び、両家の間は修復不能となり、ついに開戦に至ってしまう。

政実が刺客に襲われたことも、南部と九戸の対立を煽っているのも、豊臣政権のある人物の思惑があった。朝鮮で使役する人狩りだけでなく、九戸の領内で産出する良質の硫黄も目当てだったのだ。

南部、九戸両家は与党を募り、攻防は一進一退、決着が付かず、信直救援の名目で、豊臣の第二次奥州征伐がはじまった。
秀吉は、六月に軍令を発し、伊達や蒲生、奥州の諸将だけでなく、上杉景勝、徳川家康を参軍させ、甥の秀次を総大将に据え、十五万の大軍で攻め寄せてくる。

誰れが見ても政実らに勝ち目はない。
しかし、政実には負けない目論見が出来ていた。
元々要害の地にある九戸城を改修し、より攻めにくくし、鉄砲をはじめ武器、弾薬、兵糧を十分に蓄えた。
そして、伊達正宗に和議の斡旋を依頼し時を稼ぐ。今は八月、旧暦の八月は奥州では秋。十月には奥州の早い冬が訪れ、一面の野山を雪に埋もれさせる。

和議は成らず、征伐軍が動き出すと、山間の地形を利用し、遊撃軍や一揆勢を要路に配置し、輜重部隊や行軍の伸びきった諸将の部隊を襲い、進撃を阻んだ。
さらに、九戸城下の住民を避難させ、一帯を焼け野原とし井戸も潰した。
大軍が、九戸城を囲んでも、陣屋を造る材木すらない。

冬が来れば、大軍であることがかえって苦になる。陣小屋もなく、暖を取る薪もなく、兵糧も届かなければ全滅しかない。
政実ら九戸勢の待ち焦がれる冬は、もうそこまで来ていた。


「冬を待つ城」安倍龍太郎著 新潮社文庫 978410130527


橋本