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歴史への招待 69) 決戦!関ヶ原

2017/08/21 6:08:

決戦!シリーズ第一弾の文庫版。
「決戦!関ヶ原」伊東潤他著 講談社文庫 978406293716

7人の作家が、7人の武将を取り上げ関ヶ原を描いています。
定説を覆す仮説あり、あまり取り上げられなかった人物に着目したりで、面白い「関ヶ原」を味わえます。
7本の短編でありながら、関ヶ原のキーパーソンの内面や行動をつぶさに描くことで、7本の短編が有機的に絡み合い、一つの作品「関ヶ原」に仕上がっています。

「人を致して」伊東潤
関ヶ原前に、家康と三成は裏で取引していた。
荒唐無稽とも思える仮説。裏取引は、豊臣家の武断派集団を一掃するため、平和な世には不要な集団を一挙に葬り去り、家康による天下の掌握と豊臣家の温存を計るための裏技だった。

秀吉が死に、後を託された利家が危篤となったころ、三成が密かに家康の元へ。
三成には利家亡き後、豊臣家に内紛が起こることが判っていた。加藤・福島ら武断派と三成らとの対立は、回避不能のところまで行きついていた。

三成は、家康の力で豊臣家の反三成派を戦場に引きずり出し一網打尽とすることで、豊臣家内での地位を盤石にしたかったのか、豊臣家の安泰のためには家康に天下を譲るほか道はないと本当に考えていたのか。

家康は、三成の罠を疑いながらも、人に致され続けた人生、今川義元、信長、秀吉と抑え込まれ続けた己の人生に決別すべく三成の誘いに乗る。

利家死後は、伏見城の攻防(鳥居元忠の奮戦:討死)以外二人の思惑通り進んで、関ヶ原を迎える。
三成は本当に武断派のみを叩くつもりだったのか。東軍敗色濃厚となった場合、家康との黙約を守る気持ちはあったのだろうか。

役者は家康が一枚上手だった。家康は事前に吉川広家の内応を取り付け毛利勢を封じ込め、小早川秀秋の裏切りをも画策していた。万一黒田、福島ら武断派が敗れたとしても、大垣あたりに退き、秀忠の徳川軍本体を待ち再戦すればよい。
しかし戦いは、小早川秀秋という切り札を切った家康=東軍が形勢を逆転し、勢いづく東軍は躊躇なく西軍=三成を叩き潰した。

関ヶ原の戦いは、わずか6時間で決し、終わってみれば東軍の圧勝となった。
もう決して人に致されることはない。人生初の安堵の笑みを浮かべた家康は、もう次の一手、この先の展開を考えていた。

この他に、
「笹を噛ませよ」吉川永青、「有楽斎の城」天野純希、「怪僧恵瓊」木下昌輝、「丸に十文字」矢野隆、「真紅の米」沖方丁、「孤狼なり」葉室麟、の6編。
いずれ劣らぬ錚々たる作家の「関ヶ原」もお楽しみに。

また、新刊「決戦!関ヶ原2」葉室麟他著 講談社 978406220457
も発売になっています。

PS:岡田准一さん主演(石田三成)の東宝映画「関ヶ原」が、8月26日(土)公開となります。
こちらの原作は、「関ヶ原」上・中・下 司馬遼太郎著 新潮文庫です。


橋本

歴史への招待 68) 野望の憑依者(よりまし)

2017/08/11 6:47:

足利家執事、高師直(もろなお)と高氏(後の尊氏)は、足利勢二千を率い、総大将名越高家の元、反乱軍鎮定に向う五万七千の軍勢の一翼を担い、鎌倉を立ち上洛途上にあった。

1331年、元弘の乱で挙兵した後醍醐天皇は、鎌倉方の大軍に完敗し、隠岐へ配流されていた。
しかし、帝の三男護良(もりよし)親王を中心に、河内の楠木正成、播磨の赤松円心らが再度挙兵、反乱の野火は瞬く間に広がり、またも武力討伐をせざるおえなくなっていた。

こたびも鎮圧できるのだろうか。不安に思う師直は、高氏・直義兄弟に敵方を探るよう提案し受け入れられる。
案の定、宮方に付くものは多く、西国は反鎌倉一色に染まっているとの風説まで。
足利勢は後醍醐帝に内応を誓いながらも旗幟を鮮明にせず、日和見を決め込み、総大将高家が敗れると、宮方を表明し六波羅を攻め落とす。

尊氏と直義は、建武新政では多大な報奨と官位を得るも、政治の実権からは遠ざけられる。
尊氏は謀叛を疑われ追い詰められていくが、旧鎌倉勢力の反乱に乗じて、敵方を破り鎌倉に居座り、勢力拡大を図った。
尊氏が巻き返しの為、君側の奸新田義貞を討つことを表明し上洛軍を起こすと、後醍醐帝は尊氏・直義兄弟追討の綸旨を下し追討軍を差し向ける。

賊軍となったことで意気消沈引きこもってしまった尊氏。主君のいない上洛軍は、三河、駿河で大敗したが、師直が尊氏を奮い立たせたことで形勢は逆転、敵方の内応もあり箱根で大勝。
尊氏は勢いをかって上洛するが宮方奥州軍が到着するや、またもや逆転、京を落ち九州へ。
九州では、宮方を奇跡的に破り、反撃に転じ、兵庫湊川での大勝により京を回復する。

一連の紆余曲折を経て、尊氏は新帝より征夷大将軍に任じられ幕府を開き、後醍醐帝は吉野に退き南北朝の二帝時代に入る。
共通の敵がいなくなると、仲たがいを始めるのはいつの世も同じ。元々性格的にも合わなかった師直と直義は、足利政権ナンバー2の座をめぐって主導権争いが激化していく。

鎌倉幕府の政治を理想とする直義は、公家や僧侶と武士の共存を図り、しかも武功や能力よりも家格や嫡庶で武士を差別することが政権の安定につながると思っていた。
力=能力・実績のあるものを抜擢、優遇させようとする師直と、ことごとく対立する。

遂に二人の仲は決裂、先手を打ったのは直義。師直暗殺を企て未遂に終わるが、尊氏を動かし師直を隠居させ一切の政務から身を引かせた。
まさか直義が、自分の暗殺まで企むとは思わなかった師直の油断が招いた結果だったが、政権を掌握した直義にも隙が生じ、わずかニケ月後には師直の弟師泰に逆襲され尊氏の屋敷に逃げ込むことになる。

師直は尊氏邸を包囲するも迷っていた。
足利家家宰として尊氏一筋に仕えてきた自分と、力がすべて力あるものが天下を支配するという野望との葛藤の末、義直の隠居で決着させてしまう。
尊氏に対し非常になりきれなかった師直の手から、掴みかけていた天下はすり抜けていった。

その後、師直と高一族は、汚名と共に悲劇の結末を迎えることになる。

「野望の憑依者」伊東潤著 徳間文庫 978419894235


橋本

歴史への招待 67) 徳川宗春 尾張葵風姿伝

2017/08/01 5:57:

通春(みちはる:後の宗春)が初めて江戸の地を踏んだのは、16歳の春だった。
御三家筆頭尾張藩、第三代藩主綱誠(つななり)の御曹司とは言え、二十番目の男子「御あてがい様」では共の者五人という少なさだった。

「御あてがい様」とは、跡継ぎになれなかった大名の二男以下の公子で、分家もされず養子口もなく、一生部屋住みで暮らさざるおえない身である。

通春が出府してしばらくすると尾張藩に凶事が続く。藩主吉通(よしみち)が七月に病没し、嫡子五郎太が三歳で襲封したが、十月に高熱を発しあっけなく逝ってしまった。

吉通の子は他にいない。綱誠の男子は全部で22人生まれているものの、大部分が早世しており、この時まで残っていたのは継友、義孝、通温(みちまさ)、通春の四人のみ。
このうち、義孝は尾張藩分家四谷家へ養子に出ており、最年長の継友が藩主の座に就いたのだが、後に通温が不行跡により蟄居の身となり、通春は「御控え様」に。

「御控え様」。藩主に世継がいない場合、藩主にもしもの時跡目を継ぐ立場になったのだが、藩主継友はまだ若く、今後世継が出来る可能性は高く、通春の気ままな生活が変わったわけではない。

ひょんな事から知り合いとなった浄瑠璃作者、近松門左衛門。門左衛門を通じて知り合った黒表紙屋(黒表紙=戯作評判記)の六郎次。
彼と連れ立って出かけるのは、芝居小屋や矢場、湯屋であったり、うなぎ屋やももんじ屋(獣肉屋)、水茶屋にもしょっちゅう立ち寄る。時には岡場所や吉原までも。
とても、尾張の御曹司の出入りするような場所柄ではなかったが、おかげで庶民の暮らしぶりをつぶさに見ることが出来た。

世は、八代将軍吉宗の時代。享保の改革で質素倹約が喧しい時代となっていた。
「江戸の町から色が消えた」。奢侈追放で、身にまとうものが対象となり、若い娘までもが粗末な木綿を着、髪飾りも遠慮しろと。衣服だけでなく、美食や、酒・たばこなどの嗜好品も控えろ。芝居や色里も禁止では、町は灯が消えたようで、庶民から笑顔も消えた。

享保14年、通春に転機が訪れる。陸奥梁川三万石の四代目藩主への襲封が決まる。
お祝いに駆け付けた六郎次に「どんな大名になってほしい」と問うと。
「自分の好き嫌いを民百姓に押し付ける大名になって欲しくない」
「人が何を楽しみに生きているかわからない」「やたらと何でも禁止する大名にはなってほしくない」
いずれもご政道に対する批判であった。

しかし、領国梁川へ入府もしない間に、翌年兄継友が病没し、思いがけず尾張藩六十二万石を襲封することになった。
宗春は、初の国入に際し無難とは程遠い「かぶいた姿」で、お国入を果たす。
新しい藩主がどんな男か知りたがっている領民に、自分の姿を見せてやらねばならぬ。尾張を江戸に劣らぬ活気あふれる豊かな土地にしたい。新藩主の意気込みの表れであった。

宗春は、まずは祭礼、それも派手で元気な往事の祭礼の復活を考えた。藩主自ら祭りを主催したり、地元の祭りに参加し大いに祭りを盛り上げた。
秋には、茸狩りや歌舞伎座興行、申楽など、藩主が先頭を切って参加し、翌年には遊郭の開設も認めて、名古屋はにわかに活気づくことになる。

しかし、宗春人気が名古屋で、江戸で、高まれば高まるほど、苦々しく思うのは将軍吉宗だった。
兄継友が臨終の間際に掛けたことば「むちゃをして怪我をするな」が現実になろうとしていた。


「徳川宗春」高橋和島著 光文社文庫 978433477504


橋本

歴史への招待 66) 群青のとき

2017/07/21 5:24:

阿部正弘。備後福山藩7代藩主。
将軍家慶から家定にかけて老中、老中首座を務め、安政の改革に取り組んだ。

父正精(まさきよ)の六男として江戸に生まれる。幼い頃から才気煥発、怜悧なる子との評判が高く、兄正寧(まさやす)が蒲柳の質であったため、兄の養嗣子となり阿部家を継ぐ。

二十歳で、幕府重臣への登竜門、奏者番に。二十二歳で寺社奉行と異例の昇進。
当時、将軍家慶の信頼を一手に集めて天保の改革に邁進する水野忠邦に見込まれての登用だった。
矢継ぎ早に改革を断行する忠邦は、贅沢奢侈に流れ腐敗を極める大奥粛清に乗り出そうと、正弘に大奥女中たちと僧侶との醜聞を調べさせた。
確証をつかんだ正弘は、大奥総支配姉小路局と対峙するが、大奥との対立を避け、寺社奉行の職務範疇である僧侶側の処罰に止めた。

この処分は忠邦には不満があったが、正弘は大奥の信頼を勝ち得て、忠邦失脚後老中に抜擢される。
忠邦の改革は間違っていたわけではない。忠邦の志は高く、批判に臆することなく立ち向かう信念には畏敬の念をもっていたが、忠邦に賛意を表し庇うことは出来なかった。

保身のためと言われても仕方ない。しかし開幕以来最大の危機に直面したこの時期、開国を求め押し寄せる異国船の外患と、国力を顧みず祖法を盾に取る攘夷派との狭間で、正弘らは苦慮しながらも国の舵取りを放棄することなど出来なかった。

内憂の源、攘夷派の旗頭は、何と言っても水戸の斉昭で多くの親藩・譜代大名や公家の支持を得て、幕政に口出しをしてくる。
未曽有の国難に際し、国論の統一と攘夷の不毛を理解させるため広く外様大名にまで開国・攘夷の是非を問う正弘に、家康以来の国是を盾に理解を示そうとしない。

一方、外患の最たるものは、アメリカのペリー艦隊で、武力をもって強固に開国を迫ってくる。
我が意を通すためなら開戦も辞さないペリーの圧力に抗しきれず、ついに和親条約を締結し開国に至る。
軍事力・経済力ともに、大人と子供ほど開きのある異国相手に、武士の矜持だけで戦いを挑むことは、アヘン戦争の二の舞となることは必至で為政者として出来る選択ではなかった。

正弘は、幕閣の意見を開国で纏め上げ、親藩・譜代大名も開国止む無しに賛同させ、斉昭を孤立させることに成功し、条約締結を成し遂げた。しかし、条約調印式を終えた正弘の思いは、安堵感や達成感とは違う複雑な思いでした。

夜明け前、一瞬だけ空が群青に輝くときがある。その青さは大望を秘めた青だ。
開国の道筋は出来た。しかし、これが終わりではない。新しい我が国の第一歩と言うべきか。
これで良かったのだろうか、自問する正弘の問いに答える人はいない。


「群青のとき」今井絵美子著 角川文庫 978404104922


橋本

歴史への招待 65) 敵の名は、宮本武蔵

2017/07/11 5:14:

第157回直木賞候補作の1冊。(7月19日受賞作発表予定)
「敵の名は、宮本武蔵」木下昌輝著 角川書店  978404105080

宮本無二斎。
備前美作、宇喜多家重臣・新免家で「美作の狂犬」と呼ばれた武芸者。長刀と十手の変則二刀流の遣い手だ。
無二が新免家を出奔した理由は、主命による、密通した主君の側室と家臣の討伐で、卑怯な闇討ちをして家中にいられなくなったとのこと。

「あの親子は狂っている。」
体は大きいとは言え、十二・三の子供に生死無用の立ち合いをさせると言う。
弁助(武蔵)は狂犬無二の息子らしく瞬時も動ずることなく、鹿島新当流 免許皆伝 有馬喜兵衛の決死の一撃をかわし、喜兵衛の頭を木刀で打ち砕く。
父無二からは、元服を認められ宮本武蔵の名乗りを許される。

その後も武蔵は、生死無用の立ち合いを続けながら京に上り、天下一の吉岡道場、吉岡憲法に立ち合いを挑む。
京都所司代の監視の元、木刀での立ち合いだったが、試合という生易しいものではなかった。
互いの間合いが接した時、憲法の正気が粉々に爆ぜた。
骨を砕く両者の剣戟は、鞭のようにしなり、撲殺可能な斬撃を繰り返す。
気が付けば、憲法の右手の指二本が折れている。左手はほとんど握力がない。
もう一撃が限界だろう。
武蔵の瀑布のような一撃を左の腕で受け、渾身の力で木刀を振り下ろす。

憲法の一撃は武蔵の額を割り血が流れた。「勝負あり、憲法の勝ちだ」誰もがそう思ったとき。
「負けたのは儂だ」この腕では二度と満足に剣は握れん。

武蔵の剣が変わった。
吉岡憲法との立ち合いから、勝つとはどういうことか自問し始めた武蔵。
相手を一撃で屠る炎のような剣戟はなりを潜め、相手の太刀筋をぎりぎりまで堪え、直前でいなし、相手の体勢を崩し、首筋に木刀を優しく添える。
理に適ってはいるが、武蔵の剣ではない。

弟子から知らせを受けた無二は、巌流津田小次郎をかたり、武蔵の絵仲間二人を惨殺する。
津田小次郎とはいったい何者なのか。無二は何故小次郎をかたり、武蔵に小次郎と戦うよう仕向けるのか?
武蔵は豊前の国、舟島(後の巌流島)へと向かう。
小次郎と対峙する武蔵。戦いの結末は、武蔵と無二斎親子、小次郎の関係を解き明かす。


橋本

歴史への招待 64) 会津執権の栄誉

2017/07/01 5:21:

第157回直木賞候補作の1冊。(7月19日受賞作発表予定)
「会津執権の栄誉」佐藤巌太郎著 文藝春秋 978416390635

会津、葦名氏は桓武平氏の相模三浦氏から興った氏族であり、会津守護を称し戦国期には伊達氏と並ぶ奥州の有力大名となる。
16代当主、盛氏の頃最盛期を迎えるが、一族の猪苗代氏など家臣の統制に苦慮し、晩年には後継問題も発生し盛氏の死後、二階堂氏の人質であった盛隆を婿養子にせざるを得なかった。

その盛隆が家臣に暗殺され、その遺児も夭折し、またしても他家から養子を受け入れることに。
家中は、伊達正宗の弟小次郎か、佐竹義重の次男義広かで揉めに揉めた末、義広を迎え入れたが、家中には拭いきれない大きな亀裂を生んでしまった。
さらに、わずか十二歳の少年ゆえ飾りと思っていた義広を、補佐するとの名目で佐竹家から乗り込んできた家老たちに問題があった。
大縄讃岐ら、佐竹家から来た家老が、葦名家家臣団を仕切ろうとし、譜代の重臣たちと軋轢を生んでしまったのだ。

物語は、葦名家筆頭家老、金上盛備(もりはる)の命を受け、葦名家一族の重臣猪苗代(弾正)盛国を懐柔に向った富田隆実(たかざね)が、弾正盛国の説得に成功し黒川城下に戻る場面から展開する。

城下に戻ると、金上盛備からの書状が。
「猪苗代左馬介、謀叛の恐れあり」。なんと言うことか、左馬介は弾正盛国の嫡男ではないか!
昨日の話し合いは何だったのか?我は道化を演じさせられたのか。

伊達の調略を疑う盛備は、隆実に調査を命ずる。
噂では、内通の見返りに猪苗代湖の領地を離れ、遠く米沢近郊の新領地を知行すると言う。
しかし、左馬介の身辺を調べると、左馬介は屋敷を修復中で外壁には腐食防止として柿渋を塗っていたという。
隆実は確信を持って左馬介の裏切りはないと報告する。葦名を裏切り他家へ出奔する者が家を修復するはずがない。

半月後、左馬介が父盛国の館を襲う。
やはり葦名を裏切ったのか。急遽開かれた城での評定では、左馬介討伐が議題に上る。
しかし、詳しく調べるほど不可解なことが。
盛国の館を襲う時、左馬介は鉄砲を使用しなかった。50丁もの鉄砲を持つ者が、鉄砲を使わず一旦占拠した館を奪い返されている。何故か? 葦名の掟、「鉄砲を使った私闘は、是非によらず重罪とする」に思い当たる。
伊達へ内通する者が、葦名の掟を守るはずがない。
左馬介と盛国の間には、家督をめぐる争いがあったのだ。

盛国は、鉄砲を使ったことで叱責を受けても悔い改める風もなく、不敵な笑いを残して退いた。

翌年の夏、伊達との仲が風雲急を告げる中、弾正盛国の裏切りが発覚する。
あの笑いは、裏切りが前提だったのだ。弾正の笑い声が頭の中に響く。
他の者が新たな道を進むことを責める資格はない。しかし決して赦しはしない、笑いに込められた不純なものを。その命で贖ってもらおう。

葦名と伊達。雌雄を決する闘いの火蓋が、今まさに切られようとしている。


橋本

歴史への招待 63) 将門(まさかど)

2017/06/21 6:03:

桓武平氏の祖、高望王は将門の祖父にあたる。
臣に下ったとはいえ皇族に連なる高望一族は、坂東に根を張り、広大な地域を支配する貴族だった。
一族の集まりで、鎮守府将軍として陸奥に赴き、蝦夷と対峙する父、良持(よしもち)を見下し揶揄する伯父たちに怨嗟のまなざしを向ける少年が将門だった。

伯父たちに怒りの言葉をぶつける将門、息子を制止し叩きのめす良持。場が騒然とする中、高望は少年二人を前にして
長男国香の嫡子良盛には「我が一族の繁栄の礎となる」と予言めいた言葉を発する。
一方将門には、逡巡の後、
「やがて帝をも超える、真の王になる」。 言った途端、高望は崩れ落ちるように倒れた。

父良持が陸奥の任地で、病に倒れ亡くなると、伯父達は将門が幼いゆえ管理・監督のためとの名目で父の所領を簒奪した。
不満ながらも、どうすることも出来ない将門は、良盛の後を追い都へ。
祖父の予言に縛られる良盛は、貴族として出世を目指し、将門にも平氏の隆盛のため共に歩もうと熱く語る。

それから十年以上の歳月が流れると二人の境遇には大きな差が出来てしまった。
漢籍や和歌に明るく公家受けのよい良盛は、左馬介となり屋敷を構えるまでになるが、処世術も知らず、坂東の気風の抜けない将門は、何の官職にもつけないまま藤原忠平の家人止まり。

止める良盛を振り切り、坂東に戻った将門。
家族や以前の家臣達が暖かく迎えてくれる。都とは違い人も自然も故郷の温もりが懐かしい。

ある日、遠駆に出かけて見初めた少女を、本能の赴くまま連れ帰って妻とした。
本人も望んだ事とはいえ、娘奈美には親の決めた相手がいた。
前常陸大掾(ひたちのだいじょう)源護の長子扶(たすく)の許嫁を奪った将門。しかも奈美は伯父良兼の娘だった。
伯父達の奪った土地を無理やり取り戻したことと相まって、将門は坂東の有力者をすべて敵に回すことに。

一門の平真樹と源護との土地争いの調停に乗り出した将門を迎えたのは、将門を憎む扶ら源護の息子達。話し合いを求めてきたはずが、弓矢の応酬となり、息子達を討ち果たしてしまう。
平家の棟梁でもある良盛の父国香に事の是非を問うつもりで国香の屋敷に向かうと、国香は甥の将門に討たれることを恐れ自害してしまう。

将門から戦を望んだ訳ではないが、一門の争いは、取り返しがつかないところまで行ってしまい、良盛や伯父良兼との争いは、坂東の国人を巻き込んだ争いに発展していく。
良兼ら既存の冠位官職に胡坐をかく有力国人と圧政と搾取に苦しむ下級武士との対立は、将門を中心に渦をなし、坂東一円に広まっていく。

将門は、三十年前の祖父高望の言葉を思い出していた。
「真の王」。意味が解らず、気に留めていたわけでもないあの言葉の意味が、今なら解る。
「民から多くのものを奪い、都でわが世の春を謳歌する公家などいらない」
坂東を制し、京へ。新皇となって民のための国を築くのだ。



「将門」矢野隆著 PHP文芸文庫 978456976578


橋本

歴史への招待 62) さむらい道

2017/06/11 8:15:

最上義光(もがみ よしあき)。
出羽国(山形)の戦国大名で、山形藩の初代藩主です。

隣国の伊達正宗や越後から会津に入封した上杉景勝と比べると認知度は低く、義光を題材とした作品はほとんどなく、その生涯はあまり知られていません。

「さむらい道」を信条とし、出羽探題としての節義を守り決して他領を自ら冒すことなく、戦いも我を守る為の戦いに終始した義光の生き方は、戦国の世において光彩を放っています。
結果的に山形の地方城主から出羽一国57万石の太守に成り上がるのですが、卑怯な振る舞いや裏切りなどとは無縁で、四面楚歌に苦しみながらも武士としての矜持を守り通し、大大名になった人物です。

義光は数奇な運命に翻弄された生涯を送ることになります。
幼くして母は、父義守から暇を出され出家してしまい、側室の子義時を可愛がり弟に家督を継がせたい父に疎まれ、一時他家へ幽閉される。
しかし、祖父の代からの旧臣達に支持され、山形復帰を果たし、一種のクーデターにより父義守を隠居させ家督相続を果たす。

家督相続はしたが、父の画策により、米沢の伊達輝宗を中心に山形包囲網が出来上がってしまう。
伊達の大軍を迎えた戦いは、地の利とゲリラ戦法で撃退に成功するが、その後も山形膝元の中野、最上川西岸の白岩、谷地、東岸の天童との争いに苦慮します。

秀吉の世になると「惣無事令」とは名ばかりで越後からの進攻を受け、止む無く上杉との争いに巻き込まれるが、上杉びいきの裁定の末、出羽庄内地方を上杉に浸食されてしまう。

秀吉の北条征伐では、父の葬儀により伊達正宗より遅参するが、家康の口添えにより咎めはなく所領は安堵された。
しかし、秀次に末娘駒姫を気に入られ側室に出さざる負えなくなる。
しかもあろうことか秀次謀叛の嫌疑に連座して、駒姫は斬首。義光も謀叛の疑いで幽閉される。
度重なる窮地を救ったのは、またも家康の助けだった。

家康の上杉征伐では、義光は無論「さむらい道」として、家康の恩義にむいる側で参戦を決意するが、家中では、他領を自ら冒さないと言う「さむらい道」に反するのではとの異論もあった。結局、戦いを仕掛けて来たのは上杉側の直江兼続で、ここでは家中はまとまり一丸となって直江軍と対峙し奮戦します。
最後は、東軍大勝の報とともに、直江兼続は軍を返し、義光は「負けまい、勝つまいの戦」を制し、出羽を守り通します。

関ケ原で家康が大勝し、後の徳川幕府開幕の基礎を築いたことは周知の事実ですが、家康が安心して軍を返すことが出来たのは、懸念の種上杉を牽制し引き留めた、義光への信頼も大きな要素だったのです。


「さむらい道」上巻 高橋義夫著 中央公論新社 978412004963
「さむらい道」下巻  978412004964


橋本

歴史への招待 61) 黎明に起つ

2017/06/01 6:01:

物語の主人公は、北条早雲こと伊勢新九郎(盛時・宗瑞)。
新九郎は、政所執事伊勢貞親を宗家とする庶家備中伊勢氏、伊勢盛定の次男として京に生まれる。
兄貞興(さだおき)は、京で室町幕府申次として備中伊勢氏の将来を担い、次男の新九郎は備中の所領を管理するため備中荏原荘で幼少期から育った。

備中での平穏な暮らしは長続きしなかった。
十二のとき京では、将軍義政の跡目争いと、畠山氏・斯波氏の内紛などが絡んだ応仁の乱が勃発。
新九郎は、宗家のために証人(人質)となり、貞親と反目し伊勢国に逃れた将軍義政の弟義視を帰洛させるため荏原荘を旅立った。

義視とともに戻った京で目にしたのは、一面の焼け野原とおびただしい死骸の山だった。
京に戻ってすぐに敵方西軍の一色勢が義視邸を襲い、その中にいるはずのない兄貞興を見出してしまう。
義視を守る新九郎と貞興は、なりゆきから闘うことに。気が付けば兄貞興を討ち果たしていた。
呆然とし失意の新九郎は、出家しようとするが父盛定にこう諭される。
「わしや亡き新八(貞興)は、民のためより良き世を創ろうとしてきた」しかし、
「高位の者は、地位や財に縛られ利害を生み、利害の反する者と対立する魔と化している」
「そなたは大地に根をおろした生き方をせよ」

父に諭され荏原荘に戻った新九郎は、戦乱に荒れ果て、疫病に悩まされる民を救おうと私財を投げ打ち救恤小屋を設けるが、押し寄せる流民をすべて救うことなどとてもできない。
疫病が下火になったとき残ったのは、巨額の負債のみだった。

新九郎は、一族を守る為、意を決して上京する。魔の巣窟に身を投じ、幕府申次となるために。
京に戻った新九郎の見たものは、政道を顧みず、私利私欲に翻弄される魔物たちだった。
民の為、いつか「わしはこの国に楽土を築く」。
京での暮らしが長引くにつれ、漠然とした思いは信念へと変わっていった。

姉の依頼を受けて駿河へ下向した新九郎(盛時)は、先の駿河守護今川義忠と姉桃子の遺児竜王丸を今川家の家督に据えることに成功し、駿河に所領を持つ身となる。

これが後の北条氏関東制覇の足掛かりとなる。
将軍義政の庶兄、伊豆の堀越公方足利政知急死とその後の関東管領山内上杉家と古河公方派の台頭、さらに次の将軍足利義材との連携は、応仁の乱以後の乱れた世を立て直し、将軍家の権威を復し、民のための世を目指す細川政元らに、新将軍の擁立と政治体制の一新を決意させる。

新九郎は、細川政元の依頼を受け、亡き堀越公方政知の正室満と、遺児潤童子を惨殺した政知の庶子茶々丸を打つべく伊豆へ向かう。
伊豆の制覇は、新たな一歩に過ぎない。果てしない戦いの開幕でもある。
民の為、日本国を楽土に変える為に。


「黎明に起つ」伊東潤著 講談社時代小説文庫 978406293424


橋本

歴史への招待 60) 天下人の父・織田信秀

2017/05/21 6:27:

信長の父信秀について主に書かれた本は、一部の歴史書を除いてほとんどなく、信長について数多くの著作を有する谷口氏のこの著書は、信長を知る上でも非常に興味深いものです。

織田家は、守護代家の織田伊勢守家が嫡流で代々尾張の守護代を務めてきたが、応仁・文明の乱を経て、支流の織田大和守家が次第に力をつけ、敏定のとき幕府より守護代に任命される。
その後、伊勢守家が尾張上四郡、大和守家が下四郡を支配するようになるが、次第に実権は守護代の家臣、奉行衆に移っていく。

大和守家の三奉行の一つ織田弾正忠家の発展は、信長の祖父信貞(信定)の津島支配に負うところが大きい。
当時の津島は、伊勢湾に近い港町で、加えて全国規模の信仰の対象だった牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)の門前町でもある有数の商業地だった。
津島の経済力を支配下に収めた弾正忠家は、信秀の代には津島と同じ港町で、熱田神宮の門前町でもある熱田をも支配下に納め、その経済力は他家を圧倒し尾張の盟主の地位に就いた。

信秀は、尾張国内だけでなく、北は美濃の齋藤氏、東は今川氏とも対立し、時には尾張内の勢力争い、時には尾張の盟主としての対外戦争と、席の温まる間もない状態でしたが、尾張・三河の国境に位置する水野氏と同盟し、嫡男信長に美濃の齋藤道三の娘を迎えることで和睦を成立させ、孤立からは脱することが出来ました。

しかし、その後信秀は病魔に侵され、42歳の若さで世を去ります。
信長の信秀葬儀での有名な奇行や、後の弟信勝との対立から、信長と信秀には親子の確執があったのではないかと言われていますが、信秀は終始信長を家督として処遇しています。

信長は、よく独創的で革新的な人物と評されるのですが、多くのことを信秀から学んだのではないかと思われます。
信長の代表作とも言われる「楽市楽座」にしても、信長の領域すべてで実施されたものではなく、早急に城下町を発展させたい思惑から安土など一部で行われたに過ぎず、これは経済を地域支配の根源とする信秀の考えを受け継いだもので、京や堺では逆に既存の商人を保護しています。

宗教の弾圧についても、信長は信仰を否定した訳ではなく、信長の支配を受け入れない一向宗を敵としたもので、他の大名家との戦いと元は同じなのです。

信長の外交と戦い方についても、信秀の影響が強く表れています。
自分自身の結婚自体が政略結婚でしたが、道三との同盟は、その後の信長に大きな利益をもたらし、危機を救われています。このことに鑑み、信長は兄弟や子供の結婚を同盟の絆とする血縁外交を多用します。
また、戦いでは、信秀同様籠城戦は一度もなく、常に外で戦うことを旨としています。援軍のない籠城は死を意味することを理解している信長は、誰が見ても勝ち目のない今川義元との戦いでも、活路を見出し勝利を導きました。

最後に居城の変遷です。
信秀は、勝幡(しょばた)城、那古野城、古渡城、末盛城と本拠を移し、信長は、那古野城、清須城、小牧城、岐阜城、安土城と版図の拡大に伴い居城を移しています。
躑躅ヶ崎館を動かなかった信玄、春日山城の謙信、小田原城を五代を通じて居城とした北条氏など本拠地を変えないのが一般的なのに比して、信秀、信長とも、その時の状況に応じて最も優れた地に本拠を定めている。信秀の合理性を信長も受け継いでいると言えるでしょう。

このように信長は、多くを父信秀に学び、父の行いを倣い、時には父を乗り越え天下人への道を歩んでいったのです。


「天下人の父・織田信秀」谷口克広著 祥伝社新書 978439611501



橋本