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2018/02/21 6:02: 歴史への招待 87) 維新と戦った男 大鳥圭介

大鳥圭介は、天保四年(1833)播州赤穂の医家に生まれた。
大坂の緒方洪庵塾で、一二を争う秀才で、緒方塾では蘭語と仏語を学び、兵法書を読み漁るようになる。
知識欲に取りつかれた圭介は、江戸にのぼり大木忠益(ただます)塾の塾頭となり、兵学の専門家としての名声を得、二十五歳にして、幕府公設の江川英敏(ひでとし)塾から教授として招かれるまでになる。

慶応二年(1866)、三十四歳の時、遂に幕臣に取り立てられ、幕府の洋学教育・研究の頂点「開成所」教授に就任する。
その頃、幕府は仏公使ロッシュの助言により、幕府陸軍の仏式軍制への切り替えのため、軍事顧問団を招聘していた。
軍事顧問団の最初の指導を経て歩兵頭並に出世した圭介は、軟弱で忍耐力のない幕臣ではなく、従順だが弱々しい農民でもなく、無頼の徒とも言える「馬丁・陸尺(ろくしゃく)・雲助・博徒・火消」などの中から体格に優れた者のみを集め「伝習隊」三千を結成し、その総指揮官となった。

薩長中心の不穏な動きに対抗すべく、猛訓練を重ねる伝習隊だったが、鳥羽伏見の戦いには間に合わず、慶喜以下朝敵となった元幕臣達は、すっかり腰が引け、恭順を唱えるようになってしまった。
徳川恩顧の親藩・譜代の大名家だけでなく、幕臣すら徳川家のために闘おうとしない。

実際に東征軍に対抗すべく立ち上がったのは、歩兵奉行となった大鳥ほか、一部の下級幕臣らだった。
この後、大鳥らは伝習隊その他の部隊を率い、北関東で戦い、会津で戦い、海を渡って函館五稜郭でも戦った。
しかし大鳥らは、一部の局地的勝利以外は、負け続けた。

彼らは、何故勝てない戦いに挑み続けたのか。
彼らは、武士の世、武士としての最後の戦いを全うしたのだ。
フランス格言「行けるところまで行き、しかるべき場所で死ね」を体現するために。


「維新と戦った男 大鳥圭介」伊東潤著 新潮文庫 978410126172

橋本

2018/02/15 10:05 【『羊と鋼の森』 文庫版 発売!!】本店

『羊と鋼の森』 宮下奈都著、文春文庫、702円、9784167910105

宮下奈都さんの本屋大賞受賞作『羊と鋼の森』の文庫版がついに発売になりました!

初めて読んだ時の、冒頭から一気に引き込まれる感覚も、読み進めるうちに心と身体にまで物語がしみわたる感覚も、すごく鮮明に覚えています。
前を向いて進んでいる時にも、ちょっと立ち止まってしまった時にも、これから歩み出す時にも、きっとその時の心に寄り添ってくれるような作品だと思います。

単行本で既に読んだという方も、大切な方への贈り物にいかがでしょうか?
文庫版のカバーデザインも、かわいくてやさしい雰囲気で素敵です。

売場担当者が心からおすすめいたします。
この作品がたくさんの人の心に広がりますように、そう願っています。

また、文庫版『羊と鋼の森』の発売にあわせて、文春文庫「大切な人へ贈る本」フェアを開催中です。
5作品に宮下奈都さんのおすすめコメントPOPが付いていますので、こちらもぜひご覧ください。

本店 樋口

2018/02/11 6:45: 歴史への招待 86) うつろ屋軍師

丹羽長秀が家臣、江口三郎右衛門正吉(まさよし)。人は彼のことを「空論屋三右(うつろやさんえ)」と言う。

信長の紀伊雑賀攻めでは、十万もの大軍でも攻めあぐねていた中野城で、一番槍の功名をあげるほどの武士でありながら、空論癖とも言える想像力と空想力が有り過ぎて、人からは妄想家と見られてしまう欠点がある。
しかし、主君長秀は正吉に期待するところが大きく、二十歳そこそこの正吉を若狭国吉城代に据えた。大抜擢である。

天正十年(1582)本能寺の変の後、清須会議を前にした秀吉が、佐和山城に長秀を訪ねてきた。
織田家の後継者、ひいては天下人を決める会議を有利に運ぶため、秀吉は事前の打ち合わせに訪れたのだった。
このとき同席を許されたことにより、秀吉を身近に知る身となる。
その後、秀吉と勝家の対決前には、密かに秀吉と二人だけの軍議に参加し、我知らず秀吉に賤ヶ岳勝利の構想を示唆していた。

勝家を倒した秀吉は、自身を一貫して支持し続けた長秀に報いるため越前、若狭一国、加賀半国、近江の二郡あわせて百二十三万石を与えた。
しかし長秀は、大封を得ても喜びより憂いが深く、後の災いを予見しながら世を去る。

長秀が亡くなると、嫡男の長重(ながしげ)が後を継いだが、長秀の予見通り京師近隣に大封を持つ丹羽家の存続を秀吉は許さなかった。
謀反の言いがかりをつけ改易にされるところ、正吉らの果断な処置により改易は免れたが若狭一国十五万石に落とされ、さらに九州征伐では活躍の場を与えられない中、先代に比べ働きが悪いと、加賀松任四万石に再度減封される。

度重なる大減封で、多くの家臣が丹羽家を去ったが、残った正吉ら家臣と長重との距離は縮まり、正吉は筆頭家老として空論(うつろ)を藩の政に生かせる立場に立った。
まず藩を挙げて取り組んだのは、先代が遺してくれた職人集団による手取川支流の治水工事。
技術力の高さを秀吉に認めさせ、売り込むためだった。

秀吉の北条征伐に従軍した丹羽軍には、多数の木工、石工を帯同していた。
箱根山中城攻めで、抜け駆けの功名を挙げた正吉は、褒美のかわりに付城の石垣工事を引き受けた。手取川の治水にはじまる遠大な空論(うつろ)は、正吉ら丹羽家家臣団の活躍で、加賀小松十二万五千石への加増となって結実した。

その後も、紆余曲折する丹羽家。そこに後悔はない。損得ではなく、先代長秀の志を継いで、真の武士として生きると決めたのだから・・・。

「うつろ屋軍師」箕輪 諒著 祥伝社文庫 978439634387

橋本