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2018
日 付 分 類 内 容
2017.05.23 つぶやき
『はぴねすダンス』CD発売!!
2018年に開催される福井しあわせ元気国体・大会に向けて、
県民のみなさんの健康・体力づくりにもつながる
「はぴねすダンス」のCDが発売になりました。
税込み500円で県内の勝木書店全店で絶賛販売中です。

今日はSuperKaBoS新二の宮店に『はぴりゅう』が来てくれたよ!
お客さんと握手したり、レジに入ったりと、熱心にCDを売り込んでくれました。
みんなで福井国体をもりあげよう!

SuperKaBoS新二の宮
2017.05.22 つぶやき
『ニャンとワンだふるな写真を撮ろう』SuperKaBoS新二の宮店
ただいま二の宮店では皆様から可愛い動物写真を募集しています。

まずカメラをトリだして、かいぬしとねころんだ写真でも、のうさぎょうするたぬきの写真でも
ふぇれーっとしたゆるい感じの写真でもかまわんのです。
きゃっと驚くようなステキな写真、お待ちしております・
ぎょっとするようなへびーなのはケッコーです。
応募締め切りは6/30まで。
写真はお店に随時掲載しますのでお楽しみに!
みなさまの投票期間は7/1〜7/10まで。
一般投票で好評だった上位5名様に、にゃんともすてきなカボス賞をプレゼントいたします。

メールでも直接お店にご持参していただいてもどちらでも結構です。(ninomiya@katsuki-books.jp)
※メールには件名に「わんにゃん写真コンテスト係」と明記してください。

ペットはもちろん、ご近所や動物園で見かけたベストショットをおまちしております!

SuperKaBoS新二の宮店より
2017.05.22 つぶやき
【病害虫対策フェア】SuperKaBoS新二の宮店
田植えが終わってひと段落のこの季節、暑くなってきましたが
農作業中の皆様は、毎年「虫」に悩まされていることでしょう・・・。
農薬を使ったり使わなかったり、天敵に頼ってみたり・・・。
カメムシ、ナメクジ、アブラムシ!

勝木書店新二の宮店は
福井で(おそらく)一番農業に関する本が豊富です!

虫に負けるな!農作物!病害虫対策フェア開催中です!!

新二の宮店 越出
2017.05.21 つぶやき
歴史への招待 60) 天下人の父・織田信秀
信長の父信秀について主に書かれた本は、一部の歴史書を除いてほとんどなく、信長について数多くの著作を有する谷口氏のこの著書は、信長を知る上でも非常に興味深いものです。

織田家は、守護代家の織田伊勢守家が嫡流で代々尾張の守護代を務めてきたが、応仁・文明の乱を経て、支流の織田大和守家が次第に力をつけ、敏定のとき幕府より守護代に任命される。
その後、伊勢守家が尾張上四郡、大和守家が下四郡を支配するようになるが、次第に実権は守護代の家臣、奉行衆に移っていく。

大和守家の三奉行の一つ織田弾正忠家の発展は、信長の祖父信貞(信定)の津島支配に負うところが大きい。
当時の津島は、伊勢湾に近い港町で、加えて全国規模の信仰の対象だった牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)の門前町でもある有数の商業地だった。
津島の経済力を支配下に収めた弾正忠家は、信秀の代には津島と同じ港町で、熱田神宮の門前町でもある熱田をも支配下に納め、その経済力は他家を圧倒し尾張の盟主の地位に就いた。

信秀は、尾張国内だけでなく、北は美濃の齋藤氏、東は今川氏とも対立し、時には尾張内の勢力争い、時には尾張の盟主としての対外戦争と、席の温まる間もない状態でしたが、尾張・三河の国境に位置する水野氏と同盟し、嫡男信長に美濃の齋藤道三の娘を迎えることで和睦を成立させ、孤立からは脱することが出来ました。

しかし、その後信秀は病魔に侵され、42歳の若さで世を去ります。
信長の信秀葬儀での有名な奇行や、後の弟信勝との対立から、信長と信秀には親子の確執があったのではないかと言われていますが、信秀は終始信長を家督として処遇しています。

信長は、よく独創的で革新的な人物と評されるのですが、多くのことを信秀から学んだのではないかと思われます。
信長の代表作とも言われる「楽市楽座」にしても、信長の領域すべてで実施されたものではなく、早急に城下町を発展させたい思惑から安土など一部で行われたに過ぎず、これは経済を地域支配の根源とする信秀の考えを受け継いだもので、京や堺では逆に既存の商人を保護しています。

宗教の弾圧についても、信長は信仰を否定した訳ではなく、信長の支配を受け入れない一向宗を敵としたもので、他の大名家との戦いと元は同じなのです。

信長の外交と戦い方についても、信秀の影響が強く表れています。
自分自身の結婚自体が政略結婚でしたが、道三との同盟は、その後の信長に大きな利益をもたらし、危機を救われています。このことに鑑み、信長は兄弟や子供の結婚を同盟の絆とする血縁外交を多用します。
また、戦いでは、信秀同様籠城戦は一度もなく、常に外で戦うことを旨としています。援軍のない籠城は死を意味することを理解している信長は、誰が見ても勝ち目のない今川義元との戦いでも、活路を見出し勝利を導きました。

最後に居城の変遷です。
信秀は、勝幡(しょばた)城、那古野城、古渡城、末盛城と本拠を移し、信長は、那古野城、清須城、小牧城、岐阜城、安土城と版図の拡大に伴い居城を移しています。
躑躅ヶ崎館を動かなかった信玄、春日山城の謙信、小田原城を五代を通じて居城とした北条氏など本拠地を変えないのが一般的なのに比して、信秀、信長とも、その時の状況に応じて最も優れた地に本拠を定めている。信秀の合理性を信長も受け継いでいると言えるでしょう。

このように信長は、多くを父信秀に学び、父の行いを倣い、時には父を乗り越え天下人への道を歩んでいったのです。


「天下人の父・織田信秀」谷口克広著 祥伝社新書 978439611501



橋本
2017.05.15 つぶやき
【カレーフェア】KaBoS宮前平店
みんな大好き家庭料理の定番「カレー」。私もカレーは大好きでして、そのためにカレーの街と呼ばれる神保町にある大学を選んだくらいですからね。
ちなみに、神保町のとあるカレー屋さんでは辛さが選べるんですけど、そのランクが72段階もありまして、いやそんなに細かく差別化できないでしょ、というツッコミはともかくとして、味に関しましては文句なしとなっておりますので、興味がわきましたら是非足を運んでみてはいかがでしょう。

閑話休題

実際カレーが嫌いな人ってあまりいませんし、嫌いっていうのもおそらくただの強がりで本当は好きなんじゃないかと私は睨んでいるくらいですよ(過言)。
しかしですね、では大好きなカレーのことならなんでも知っているのかというと、案外そうでもないわけでして、おいしいお店を探して食べに行ったりはするけれど、自分でつくる分には市販のルゥを買ってきて溶かし入れるだけ、また、そもそものカレーの成り立ちや歴史、その文化的背景といったものにまで思索を巡らすまとではいかない、なんて人が大半かと思われます。

果たしてそれでいいのでしょうか。

カレー鍛錬を怠ったあなたは、ある日ストリートでカレー勝負を挑まれ、相手の圧倒的なカレー知識量、カレー愛の前になすすべもなく敗れる。精神的支え、自信、そして生きがいをうしない、酒と女に逃避する日々…脳裏に過ぎるのは幼き日に食べた給食のカレー…ダルシム……
そんな暗黒未来を打ち破るためにあなたはなにをすべきか、その答えをあなたはすでに知っている。そう、KaBoS宮前平店に赴くのだ。現在そこではカレーフェアという夢のようなフェアを展開しており、あなたはその圧倒的カレー情報量の前に打ち震える。
「カレーは熱いうちに食え」というインドのコトワザがある。この記事を読んだあなたはすぐさまウィンドウを閉じ、KaBoS宮前平店へと急行すべきだ。さすればその先には輝かしく華麗なる未来が待っているだろう……

宮前平店
2017.05.15 つぶやき
【神話フェア」KaBoS宮前平店
一般的に、欧米をはじめとする海外文学作品に対しより深いアプローチを行う際、聖書やシェイクスピアの知識が必要とされるといわれておりますが、果たしてそのふたつだけで事足りるのか?また欧米以外では?
そこで必要となってくるのが「神話」や、それに類する「古典」、「伝承」といったものではないでしょうか。というより、そもそも聖書自体が神話と呼んで差し支えないもので、シェイクスピアも当然その聖書等の神話の影響を受けています。

人々の間で当然の知識、価値観や思想の基として共有される物語が神話であり、引用やモチーフといった形で意識的にも無意識的にもその創作物に表れてくるものであります。
直近の例で言いますと、現在公開中の『美女と野獣』の劇中に『アーサー王伝説』の引用がありますし、今夏公開の『トランスフォーマー』も副題が『最後の騎士王』となっておりまして、これもアーサー王がモチーフですね。(アーサー王好きすぎでは?)また、ファンタジー作品ですと北欧神話やケルト神話のキャラクターの名称がそのまま使われるなどしております。

モチーフの基となっている神話を知れば、いままで見てきたさまざまな作品もまた違った角度から見ることができるのではないでしょうか。

宮前平店
2017.05.11 つぶやき
【国旗さがしっこイベント】SuperKaBoS新二の店店
「5月13日(土曜)、5月14日(日曜)の2日間、店内にて国旗さがしっこイベントを開催します。
 店内に隠された6カ国の国旗をさがして、クイズに答えよう!
 全部答えると、自分で作れるえいごミニミニブックとおまけがもらえるよ。
 みなさんの参加おまちしております。」

新二の宮店
2017.05.11 つぶやき
歴史への招待 59) その後の慶喜
最後の将軍、徳川慶喜。
大政奉還をなして、徳川幕府に終焉をもたらした。鳥羽・伏見以降は朝敵となることを嫌い、ひたすら恭順を貫き、脆弱な新政府軍と旧幕府軍との本格的な内乱を防いだとも言える。

上野寛永寺から水戸へ向かう慶喜。歴史上の慶喜はそこで終わりです。
しかし大政奉還時32歳。慶喜はその後大正時代76歳までひっそりと生きたのです。
徳川慶喜について書かれた本は、将軍就任前から、大政奉還までを取り上げたものがほとんどで、その後半生はほとんど知られていません。

わずかに1982年発行の「聞き書き 徳川慶喜残照」に慶喜身の回りの人々からの聞き書きとして後半生を紹介しているくらいのものでした。

たしかに慶喜は大政奉還後、その歴史的意義を失ったのかもしれません。それに権力者が没落する例は、洋の東西を問わず枚挙がなく珍しくもなんともないでしょう。
しかし、多くの事例では旧権力者は、死亡したり行方不明だったり、幽閉され悲惨な末路をたどることが通常なのに比して、慶喜は平凡な後半生を送り、畳の上で亡くなっていることが非凡と言えるのです。

本書では、慶喜が長い静岡時代にどのような生活をを送っていたのか。
慶喜が旧幕臣にどのような対応をとったのか。
徳川宗家と慶喜家の関係、朝廷・皇室への慶喜の対応とその変遷などを、慶喜家の「家扶日記」(家宰が記した慶喜家の記録)から紹介しています。

慶応四年七月に水戸から静岡へ転居した慶喜は、ここでも徳川家の菩提寺宝台院での謹慎生活を続ける。
謹慎・恭順の姿勢は、先に挙げた通り、鳥羽・伏見以降一貫して貫かれているのですが、幕臣の中では少数派だった勝海舟、大久保一翁、山岡鉄太郎らの恭順派とも言える人々の意志が強く働いていて、静岡での隠居生活にも大きな影響を与えていました。

勝海舟らは、慶喜の助命、徳川家の存続に奮闘し、慶喜と徳川宗家を救ったとも言えますが、多くの幕臣から見れば、慶喜を含め裏切り者であり、許せない存在だったのでしょう。
それが、慶喜が旧幕臣に頑なに会おうとしなかった理由でもあるのです。

慶喜の謹慎が解けた後の私生活は、ごく親しい人々と趣味に没頭し、子宝にも恵まれ平穏な日々を過ごすことになりますが、公の場に出ることは徳川宗家を隠れ蓑に拒み、政治的な発言は慎重に避け続けています。

そんな慶喜に転機が訪れるのは、東京巣鴨に転居し、新たな交流関係が生まれた明治三十年以降です。
明治三十一年には、初の参内を果たし明治天皇・皇后との拝謁が実現する。
この日、慶喜と明治天皇は会見するだけでなく、親しく酒肴を共にし、お互いのわだかまりを氷解させたようです。
この後は、宮中行事には欠かすことなく招待され、皇室との関係は円満に推移し、明治三十五年には人臣最高の公爵にも列せられ、貴族院議員にも名を連ね名実ともに名誉を回復する。

征夷大将軍から一転して朝敵となり、逼塞の日々を強いられた慶喜は、明治の元勲と言われる人々、木戸、西郷、大久保や伊藤、明治天皇よりも長生きし明治と言う時代の誕生から終焉までを見届け、何も語らず大往生と言える生涯を終えるのです。


「その後の慶喜」家近良樹著 ちくま文庫 978448043422


橋本
2017.05.01 つぶやき
【DVD&CDセールのご案内】KaBoSベル店
☆☆5/3〜5の3日間限定!!FOX社DVD&ブルーレイ6枚で¥3000+税セール!!!☆☆

FOX社DVD&ブルーレイを、5/3〜5の3日間限定で、6枚¥3000+税にて販売!!
007やダイハード、ロッキーなどシリーズものを、お得にまとめ買いできるチャンスです!
この機会をお見逃し無く!!



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6月30日までの期間限定となっております。
ぜひご来店ください!

KaBoSベル店
2017.05.01 つぶやき
歴史への招待 58) なぜ会津は希代の雄藩になったか
日本史の教科書で習った江戸時代の三大改革の一つ老中松平定信の寛政の改革。
陸奥白河藩の藩主であった定信が、寛政の改革の最中、国家老たちに「会津の田中三郎兵衛に笑われぬようにせよ」と言わしめたのは、会津藩家老、田中玄幸(はるなか)。

そもそも会津藩は、藩祖保科正之が会津23万石に移封された寛永二十年(1643)に始まり、正之は入部当初から年貢率を引き下げるなど民に優しい政を心掛けた数少ない藩でした。
その甲斐あり、当初11万だった人口は着実に増え続け二代正経(まさつね)の時代には16万に届こうかと言うまでになる。
しかし、在職50年に及んだ三代正容(まさかた)の時代には、微増しかせず享保三年(1718)をピークに減少に転じてしまう。

減少傾向はその後も続き、五代容頌(かたのぶ)の頃には13万人台にまで落ち込む。
これは例年のように凶作が続き、農村が疲弊し産子殺しが増加したためで、藩としても年貢率の減免や飢餓防止策など数々の救済策を施すが、人口減には歯止めはかからなかった。

人口減少と反比例して増え続けたのが藩の借入金。
凶作や飢饉が続き、藩の収入は減っても救済策などで支出は増え続け、さらに人口減が年貢収入の減少へと悪循環が重なり、容頌の治世安永元年(1750)には借入金は57万両にもなってしまった。

藩も無策だった訳ではない。度々150石以上で3割、それ以下の者へは2割の借知(知行借り上げ)を命じたが、焼け石に水。貸主からは新たな借り入れを断られたり、評定所に訴え出られるまでになってしまう。

玄幸の改革は、天明七年(1787)から始まるのですが、彼の改革で注目すべきは、まず社倉米(飢饉時貸出のための備蓄)の総高を引き上げたり、社倉米の返済が滞ったもの、年貢未納の古いものについては免除したことで、藩の借金返済よりも、民の救済を先とする驚きの改革なのです。

次には、よくあることとも言える地場産業育成策ですが、玄幸のものは他藩とは趣が違います。
たとえば、実から蝋がとれ、ロウソクの原料となり、幹に傷をつけると漆液のとれる漆の木は、無理に傷を付けるとすぐ枯れてしまう。そこで一本づつ戸籍を作り保護育成に努めるのですが、その数なんと180万本。
また、酒造業は正之の頃から奨励されていたが、上酒とは言えず藩外には出せないものだったが、摂津の灘から杜氏を招き評判の良い清酒を造れるようになった。
さらに養蚕業では隣の福島藩より苗を買い入れ普及に努め、藩主導で桑の葉の買い取りまで行った。蚕から取れる絹糸を絹織物業として育成するために、これも達人を京都西陣から招いき家中に指導をいきわたらせた。
質素な藩風の会津藩では、絹織物は普及していなかったが、自分や家族が織ったものは着用できるとしたところ、会津家中の婦女で機織り機を持たないものがいないくらいの普及を見せた。

その他にも、松茸の栽培や鯉の養殖、漆器の製造など数々の地場産業を育成し、会津の名産に育て上げた。

玄幸の改革は、それだけではない。
最も重点の置かれたのは、教育改革と軍制改革だった。時代に即した教育の充実と、実践的かつ近代的な軍制改革により、会津は注目される雄藩となった。

その後、幕末に薩摩・長州と対峙し、佐幕派の領袖となったのは、改革の成功が招いた皮肉な結果でした。


「なぜ会津は希代の雄藩になったか」中村彰彦著 PHP新書 978456982679


橋本